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孤独について

コロナ禍の昨今、人との交流が断絶していることを問題にする論調がかまびすしいと思います。
そこで、あえて、孤独について思索してみたいと思います。

孤独って悪いこと?

孤独であることは悪いような印象がある。

世の中の風潮としては、「孤独」というのは非常にイメージは悪いと思います。
孤独死とか、孤独な境遇で犯罪を犯してしまう人が居るとか…

人に合わすのがしんどい人も居る

元々一人で行動する方が機動力もあるし、気兼ねもしないでいいし、という人も結構居るのではないでしょうか?
自分でそれが分かっていても周りに合わせる生活が半ば習慣になっている人も居るでしょうし、そのあたりの線引きで悩まれている人もたくさん居ると思います。

孤独を楽しめると言うことはある意味非常に幸せではないか?

孤独であってもその人が楽しかったり満たされていればそれでいいのではないか?

孤独であっても人様に迷惑をかけず、自分の内部で完結しており、かつその孤独という状態をその人が楽しめているのであればそれでよいし、それは非常に幸せではないかと考えます。
もちろん、たくさんの人と居ていろいろな話をしたり交流を持ったりすることによって得られる充実感とか幸せを否定するわけではないです。それらと同等同列の価値観だと思うのです。

孤独とわがままは違う。

以上のようなことから考えると、孤独であると言うこととわがままもまた全く違う価値観であると思います。
わがままの定義としては以下の通りです

他人のことは考えないで自分の思うままに振る舞うこと

明鏡国語辞典MX

孤独であっても他人のことを考え、協調することができていればわがままではありません。
また、わがままだから孤独である、ということはいえないでしょう。場合によっては「孤立」につながることがあり得るかも知れませんが。しかし社会はわがままだからと言って人を「孤立」状態に放り込むというのは間違いです。多様性を無視していると思います。

現在わがままというキーワードで気になることは言えば新型コロナの反ワクチンの考え方の方に対する社会の対応です。
ワクチンを打つ、打たないというのは個人の選択の問題です。この選択には心情や宗教、考え方なども含まれてきて非常にデリケートな問題になると思われます。
ワクチンを打つことによって社会的な免疫ができるという考えは一見論理的で合理的であり、それを強制する(事実その方向に行っている国や地域がありますね)動きがあります。このような動きの根底には「ワクチンを打たない人はわがままだ」というような認識もあるのではないでしょうか?
そのような狭量な社会は多様性もないし、硬直した社会だと思います
そして一方向に走る社会になりやすくなるでしょう。国や地域全体が間違った方向にひた走りやすくなると考えます。

私はいわゆるハイコンタクトグループに入る職業をしていますので、ワクチンは3回目も接種終了済みです。子供たちは3人とも打ちたくない(接種後の晩期の副作用が心配とのこと。これについては理論的にはおそらく何もないだろうと言うことはいえますが、実際はどうなるかと言うことは未知です)、家内も晩期の副作用が心配だしそれほど出歩く生活でもないので打たない、ということにしました。
この決断は個人的にはスムーズに行えたのですが、そのとき少しひっかかったのが社会がワクチン接種を促しているというか暗に強制しているのではないかという雰囲気(同調圧力)があったことです。
外出したりするのはやはり気を遣いながらになりますが、慣れてしまうとたいしたことは無いです。(基本的に出歩かない、という方向になるだけです)

話がそれましたが、わがままという言葉も便利に使っていると言うことがあるようです。

話を戻しましょう。

孤独というのは自分の内面と向き合うこと。

ここで孤独という状態で人はどのように時間を過ごしていくかと言うことを考えていきたいと思います。

内面と向き合うことにより新しい自分が見つかったり、自分をより深く理解できるのではないか。

一人で居て、自分の内面とゆっくりと対話をしたり、その上で考えをまとめたり、思索をしたりすると言うことは、他人と居て感じる充実感とはまた違うものがあるのではないでしょうか?
少なくとも小理屈野郎はそう感じています。

自分をよく知れば、他人をよく知ることができる。

自分の内面を腹蔵なく見つめ直すことができれば、自分の表の面とある程度の裏の面を知ることができるようになるはずです。また、他人はどうしているのか、ということに思索の方向が向くこともあると思います。そうすることによってぱっと見で見えている他人の表の面だけではなく見えていない面まで深く理解することでができる(=よく知ることができる)のではないでしょうか。

自分の孤独を大切にしてくれる人が居れば、他人の孤独を大切にすることも大事だと分かる。

孤独の中で思索をしっかりと進めてくれば、自分の孤独が大事と言うことが分かると思うし、自然と他人の孤独も大事にしたくなると思います。

孤独になれれば身の丈以上のことはあえて仕掛けていかないと思う。

上記のような発想になってくれば、目立ったり、人を蹴落としたり、無理したりしなくなるのではないかと考えます。
まず、自分以外に競争相手が居ない場合が圧倒的に多くなりますからね。
もしそのような状態になるのであれば、落ち着いて自分の内面を見つめ直して思索すると言うことは少なくともできていないと考えるべきです。それを一人で補正して行けるか、というとそのような状態にいったん陥ってしまうと難しいかも知れませんね。

ハンナ・アーレント氏の「一人で居ること」の定義

ここで、哲学者・社会学者のハンナ・アーレント氏が考えた孤独についての極めて示唆に富む定義を見てみたいと思います。

・孤独;自分自身との会話が成立している。周囲との関係性は保たれている。
・孤立;人々が共同生活する機会を失われている政治的な孤独
・寂しさ・見捨てられている状態;かなりまずい状態。こうなったら生活する場所や仕事など環境変化を起こす必要がある。

孤独であっても周りと協調するときはできればいい(=孤立とは違う)

上記の定義を適応すると、孤独であっても周りと協調できれば素晴らしい孤独、ということになると考えます。

世の中で問題になっているのは「孤独」ではなく「孤立」ではないか?

年老いた方々のうち、単身で生活しており、隣三件両隣とのコミュニケーションもなくなっている、ということがよく問題になりますが、それは上記の定義から言えば、「孤独」ではなく「孤立」だといえると思います。

現代人は孤独という言葉や状態に恐れすぎているのではないか?

現代人は孤独という言葉を聞くと大体は「孤独死」という言葉を連想したりしてしまいます(小理屈野郎は少なくともそうでした)。要するに孤独になったら死ぬ、みたいな印象です。
報道を見ていると、孤独に亡くなる人は増えては来ていますが、普通ではなくある意味珍しいから報道になるのではないでしょうか?(もちろん孤独に亡くなったことを馬鹿にするつもりはありません、その方がどのような気持ちで亡くなっていったかと言うことを考えると暗然たる気持ちになります)。
上記のように思索を進めてくると、世の中で言う「孤独死」は「孤立死」もしくは「見捨てられた死」と言うことになるのではないでしょうか。

孤独死と孤立死;孤独という言葉の暴走のスタート

結局、「孤独死」という言葉は実は大体の場合において(もちろん例外はあると思いますが)「孤立死」の誤用であって、そのイメージから孤独ということばのネガティブなイメージを作っていると思います。
孤独と孤立、どちらに当てはまるかいつもよく考える必要があるようです。

まとめ

「孤独」と言うことについて思索をしてみました。
小理屈野郎自身は孤独であることはいいことだと思うし、自分がその中でゆっくりと思索ができると感じられることは幸せだと思いますし、誇りに思います。
「孤独」と「孤立」よく似ているけど全然意味が違うと言うことに気づいて周りの人たちの交流と同様に孤独を楽しむ人が増えていけばいいなと思います。
「わがまま」と「孤独」も違うものです。その違いと世の中の気になる動きについて思索をしてみました。
小理屈野郎もこれからも孤独で思索を楽しめる環境をいつでも持っていたいなと思います。


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