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帰省

 220km。東京から妻の実家のある福島県喜多方市までの直線距離だ。それは古着屋の従業員として生活する日常から心理的距離をとるには十分な距離になる。実際には、福島県と栃木県の県境には山地が広がるため、車で移動する際には東京から郡山に向かい新潟方面へ迂回するルートをとらなくてはいけない。高速道路をノンストップで走って4時間強かかる上に、ましてや1歳児を連れての帰省となると移動には丸1日かかってしまう。しかし、そのアクセスの悪さがかえって「夏休み感」を盛り上げてくれる。

 観光地で知られる喜多方市には豊かな田園が広がっている。住宅街も東京のそれとは違い、どれも広い庭としっかりとした家々が並んでおり家同士の間隔も広い。玄関から手を触れられる距離に草花や虫が潜んでいて、それらは昨今の東京都内で見かけるようになった新築マンションの玄関先にある人工的な木々とはまるで違う。そして親戚同士で集まると何気ない世間話が始まるのだが、そこでは「庭で育てたメロンに虫が湧いて今年はどの家でも不作だったこと」や、「カボチャを収穫するときには何センチ枝を残すと一番新鮮さを保てるのか」といったことが自然と話題に出される。僕は、こういった普段とは全く違う環境に身を置くことで日々の疲れを癒し充実した3日間の夏休みを終えた。


 古着とはエンターテイメントである。ただ洋服を売るだけではない。一連の購入体験を通じて、日常的に抱える悩みやネガティブな感情から心理的な距離を取り、日々の疲れを癒しながらそれらに立ち向かうエネルギーをお客様へ届ける仕事だ。その本質は「いかに非日常を味わってもらうか」という点に集約されるように思う。ディズニーランドを代表するテーマパークや、Netflixなどのオンラインコンテンツ、こういったものも「非日常を味わうエンターテイメントに時間を費やす」という点において古着屋の競合となる。こういった背景を踏まえた上で、古着屋は常に「エンターテイメトとは何か」「非日常と何か」を考え自らの商品・サービスをアップデートし続けなくてはいけない。

 今回の帰省は、僕にとって大きな学びとなった。それは「人間にとって非日常とは何か」という問いに新しい答えを与えてくれた。一般的に、非日常的なエンターテイメントというと上記のようなテーマパークや煌びやかな演者の創り出す「日常から隔離された世界」を想像することが多いだろう。僕自身もそうだ。しかし、喜多方市で過ごした数日間は僕に別の非日常的な世界を見せてくれた。それを表現するならば「人間にとって非日常とは、"他者の日常”を味わうことでもある」ということだ。家の裏庭で育てた野菜についての世間話やその土地特有の生活感は、そこの住む人々にとっては日常だ。つまり僕が古着屋として日常を送るように、世界のどこかで僕とは全く違う価値観と悩みを抱えて日常を過ごしている人々がいる。その比喩的な意味で“他者の日常”を体感することは僕にとっては非日常であり、エンターテイメントなのだ。

 煌びやかなエンターテイメントに比べると派手さはないのかもしれない。しかし、そこには圧倒的な「他者への共感」がある。普段の生活とは全く違う世界をのぞいて非日常感を味わいつつ、日常を過ごす中で悩みや課題を自分と同じように抱えているのだという「他人への共感」を同時に味わうことができる。その共感はディズニーランドやNetflixとはまた質の違った癒しと未来へ向かうエネルギーを与えてくれる。ここに、エンターテイナーとしての古着屋が現代で生き残るヒントがあるように思う。

 キラキラ光る演者としての古着屋店員だけでなくもっと日常をオープンにした古着屋従業員としての側面を、個人単位でもお店単位でもお客様へ届けていく必要がある。それによってかえって非日常を感じてもらい、古着の魅力に気づいてもらうことが可能なのではないかと思った。普段どんなことを考え、どんな古着に魅力を感じ、どんな課題を抱えているのか。そういったリアルな古着屋の日常にはエンターテイメントとしての魅力がある。

 世界的な古着ブームで無数の古着屋が鎬(しのぎ)を削って顧客の獲得を目指す中で、ただ目の前のお客様に洋服を届けるだけでは生き残っていけない。古着の魅力をもっと知ってもらい、自店の魅力を感じ取ってもらわなければいけない。そういった焦燥を抱えていた自分にとって、今回の夏休みはとても学びが多く貴重な時間になった。


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