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映画「トイストーリー4」:ウッディの成長を通じて語られるアドラー心理学

本作では、ゴミから作られたおもちゃ「フォーキー」の存在と、子どもから必要とされなくなったウッディを対比させることにより、ゴミとおもちゃの曖昧な境界を探索するとともに、ウッディのアイデンティティをめぐる問いを通じて、伝統的な役割意識を満たすことによって承認欲求を充足することをベースとした、他者依存的なアイデンティティのありかたからの解放を描いていると理解しました。

本作で中心のキャラクターとなるフォーキーはゴミでできており、決して美しくない仕上がりであり、ウッディのような立派なおもちゃのような機能や外見を持たない。が、持ち主に何より必要とされている存在であることによって、おもちゃとして成立している。一方でウッディは(古いながら)発声器もまだまだ活躍する立派なおもちゃであるものの、持ち主から見向きもされない状況である。ウッディは、おもちゃの役割は「持ち主に必要とされ、持ち主と遊ぶこと」という伝統的な意識を抱いており、この役割を全うすることでその承認欲求を充足しているため、彼はこの状況によって自分の存在価値を疑うというアイデンティティ・クライシスに陥っている。

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このような状況で、ウッディは自分の存在意義を「持ち主が大事にするフォーキーを守ること」と位置付けることで、自らのアイデンティティをかろうじて保つことと決め込んでいる。彼にとって必要とされないオモチャは、役割のないオモチャは、持ち主から何より必要とされる(オモチャの形になった)元ゴミよりゴミに近いからだ。

このような承認欲求の呪いにかけられているのはウッディだけではなく、承認欲求の怪物となってしまったギャビー・ギャビーも同様である。ウッディはかつて人に必要とされたことがあり、昔の持ち主と遊んだ多くの思い出があるからこそギャビー・ギャビーと比しても強くいられるが、そのような経験がないギャビー・ギャビーにとっては他人から承認を得ることは、さらに深刻な問題である。

一方で(ピクサーのポリコレ配慮の権化のような)ボー・ピープはそのような役割意識から解放されたまさに”liberated woman"である。かつてただ電気スタンドに佇んで微笑むだけだったその役割から放たれたボー・ピープは、満身創痍ながらも自由に生きている。ギャビー・ギャビーとボー・ピープのどちらが生き方として健全に見えるかということについては異論はないだろう。

(10代女性向けファッション雑誌では「モテ」、20-30代向けは「愛され」、40代以降は「幸せ」がメインのキーワードになっているような気がするが、少なくとも前者二つの承認欲求をベースにした考え方は健全でサステナブルな「幸せ」にはつながらないんだよな・・・と思う)

「親」や「恋人」といった立場の役割を担って誰かに必要とされることや、社会の一定の役割にたいして、自らのアイデンティティを見出すのは、我々人間も同じである。しかしそれらのアイデンティティは自分を必要とする他者の存在無しには成立しえないため、脆いものと言わざるを得ない。だからこそ、子供が巣立った後の空の巣症候群や、定年退職後のアイデンティティクライシスのような問題が起こりうる。

結末のウッディの選択は、伝統的な役割を果たすことや、他者から必要とされることを自身のアイデンティティの根拠とするのではなく、自分の意思や感情をアイデンティティとする大きな転換を彼が遂げたことを示していたのだと思う。

最近私はいまさらながらアドラーの本をかじるようになったのだが、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と考え、そして人は「他者の期待を満たすために生きているのではない」と提唱し、承認欲求の充足に立脚した生き方をその他者依存的な不安定さゆえに否定するアドラーの観点からは、ウッディの選択は100点だったのではないかと考える。アドラーは、人生には意味はもともとないが、その意味は「あなたが自分自身に与えるものだ」と語る。自分の人生の意味を最後に見出すことができたウッディはアドラー心理学の体現者である。

(個人的には、この映画について世代が一つ上の上司と自分が抱いた感想の違いが興味深かった。彼はウッディが最後おもちゃとしての使命を果たさない選択をとったことを「逃げ」ととらえたようで、納得できなかったと言っていた。彼は仕事の役割に強い使命感を持ち、仕事を愛している人間だからこそそのような感想を抱いたのではないかと思われる。)

私は4月から激務で有名な業界に転職する予定なのですが、ウッディの成長ぶりをときどき思い出して、自分の人生の意味を見失わないようにしたいと思います。

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