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感想『君の名前の横顔』

 最近は賞に応募する為の長編小説ばかりに気を取られていて、noteへ短編を投稿できないどころか、文章の書き方のインプットとアウトプットをごちゃ混ぜにしないように読書そのものも避けていました。
 しかし友人から感想を聞いてどうしても気になってしまったので、河野裕先生の最新作である『君の名前の横顔』を読んだ感想を綴ろうと思います。読み始めたのが22時頃でこれを書いているのが真夜中の2時頃になるのですが、今すぐに自分の感情を言葉に落とし込みたいと思えるほどに、深く考えさせられる物語でした。


 読み終えてまず、今作のテーマは一言ではとても言い表せない複雑なものだな、と感じました。家と家族、偏見と常識、正義と悪意、そして名前と言葉。枚挙に暇がないです。今回の話の主軸は、河野先生がよく描く主人公とヒロインを中心にした正解のないものを求める物語ではなく、楓や愛、有住梓、そして冬明の誰もが主人公であり、正解とか不正解とかを決めたくなくてそっとしておきたい物語のように思えました。家族の形にも、常識の在り方にも様々な側面があって、それは正義にも悪意にも成り得る、正に作中に出てくるジャバウォックみたいなものなのかもしれません。その中で登場人物のそれぞれが、足掻いて自分なりの答えを見つけ出すのが最大の魅力でした。
 作中におけるジャバウォック─────『昂揚した議論のたまもの』は人々によって様々な解釈があると思います。僕はジャバウォックを認識できないので、偏見に満ちた常識と誰かが掲げた正義によって決められて切り捨てられている価値観が、果たしてこの世界において本当に盗まれているのかは分かりませんが、ジャバウォックに似たもの、世界から何かを欠けさせるものを見る機会は沢山あります。
 昔とは比べ物にならないほどSNSが発展し、知らない誰かと繋がれるツールが当たり前のように日常へ溶け込んでいます。自分の交流の輪を広げて新しい居場所が作れるのは魅力的ですが、同時に誰かの居場所を簡単に奪えるものだとも思っています。僕は仕事で最低限Facebookを使ってたり、情報を集めるためにTwitterを見ることもありますが、自分から何かを投稿したことは一度もありません。noteを使って小説やこういった感想を世に出しているのも、若干抵抗があります。多分それは理屈ではなく、本能的な恐怖に似た何かを感じているからかもしれません。言葉にするのが難しいですが、周りの常識に飲み込まれて、自分の中にある正義や悪意を飲み込んでしまいたくないからだと考えています。しかし、昨今の世の中はそれこそネットでの誹謗中傷や所謂炎上というものと切っても切れない関係になってしまっていますし、それを傍観していることもまた、ジャバウォックを受け入れてしまっている側面の一つと言えるのでしょう。
 ジャバウォックへ怒りや悲しみをぶつけて何かを捨てている誰もが、いつかそれに気づいて楓のように捨てるのではなく壊して新しいものを作ろうと、そして何かを許せるようになれれば少しは息苦しくなくなる世の中になるとは思いますが、中々難しいですしままならないものです。

 この作品を読んで『家族』というものについても考えてみました。血の繋がりは無くならないけれども、血が繋がっていなくとも家族にはなれるというシンプルな結論が僕は好みでした。僕個人が大きな家族問題に今まで巻き込まれたことはないですが、自分にとって家族とは始めから決められていた縁でもあり、また限りなく近い他人だとも思っています。世話になっている事柄は勿論沢山ありますし、大人になってから知った家族に対する感情もあります。ただそれは正しいとか間違っているとか、好き嫌いの範疇ではなく、「まぁそんなものだろう」という気概でいます。楓にとっての呪いとも言える血の繋がった母親も死を選んでしまった父親も、血の繋がっていない大切な存在である愛と冬明も、幸福も不幸もひっくるめて『家族』という存在なのでしょう。

 『君の名前の横顔』というタイトル通り、物語の鍵になっていた『名前』については、そのギミックに感心してしまいました。河野先生は『サクラダリセット』の浅井ケイ(名前がカタカナ表記である)や『階段島シリーズ』の七草(最後まで苗字のみで名前が出てこない)のように、名前に仕掛けがあるのが特徴的でしたが、今作はそれらをはるかに上回る拘りが感じられて非常に良かったです。人の名前に意味を持たせることと、そこにどんな愛情を注ぐかの考え方についての違いが見事に描かれていました。

 だから彼の名前がなんであっても、私はその名前を好きになっただろう。どんな由来でも、どんな願いだとか、祈りだとか、呪いだとかが込められている名前でも関係ない。中身が素晴らしいのだから、そっちの方が本質だ。(本文 三三八頁)

 今作でのお気に入りのシーンです。河野先生が描く等身大の少女としては、いつもに比べて少しインパクトが抑えめだった有住梓ですが、やっぱり考えている基盤と心の底にある想いは他作品とも同じなんだな、と考えさせられる一文でした。これだけ『名前』に拘ってギミックを盛り込んでいるにも関わらず、別にそれが重要なわけじゃない、と謳うのは流石だと思いました。
 名前と言葉ではなく、中身の本質を見る。文字に起こすと短いですが、とてつもなく難解ではないでしょうか。誰だって思っていることを伝えるには言葉へ託すしかないし、この世に存在する固有の名前に当てはめざるを得ない。その意味や解釈が自分の想いとどれだけズレているとしても、無理やり言葉や名前に押し込まないといけない。それは非常に不自由で歯痒い、やりきれないことだと僕は思っています。誰だって、言葉や名前では言い表せない感情に出逢った経験があるのではないでしょうか。
 だからきっと、名前にも言葉にも願いや祈り、呪いが確かに込められているもので、中身の本質だけを見て素晴らしいと言えるのは限りなく理想論なのだと考えています。それでも僕は、こんな理想論を振りかざす有住梓が、河野先生が思い描くヒロイン像が、やっぱりたまらなく愛おしく思えてしまいます。

 これまで生きてきた中で、理不尽に直面した時どうしても自分の中にある感情を飲み込まざるを得なくなり、知らず知らずジャバウォックに盗まれたものが沢山あるだろうし、おそらくこの先も切り捨てたものを盗まれてしまうのかもしれません。それはこの世の中で当り障りなく過ごすには必須な事柄なのでしょう。それでも捨てたものを拾うか、はたまた捨てるのではなく壊して新しいものを作るか、何を選ぶのか忘れないように言葉を紡ぎたいな、と心に刻み込みました。また素敵な作品に出会えたことを嬉しく思います。
 余談ですが、作中でスピッツの『運命の人』という歌が引用されていましたが、サビを聴いて自分が幼い頃好きだったスピッツの曲だったというのをふと思い出しました。ジャバウォックに盗まれて忘れていたわけではないですが、こういう偶然の再会も何となく嬉しかったです。

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