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1986年はじめての海外 アメリカ #7 帰国

ここからの続きです。

ただただ楽しかったソフィーと過ごした日々も終わり、とうとう帰国の日がやってきてしまいました。
私も友達も、ポートランド空港ではたくさんの思い出と、帰りたくないという気持ちでいっぱいでした。

帰国便は、国内線で乗り継ぎのためのシアトルに向けて離陸しました。
1ヶ月過ごしたポートランドがだんだんと小さくなってしまい、あっという間に到着。シアトル・SEA -TACがアメリカ滞在最後の場所になりました。
SEA-TACでは成田行きの飛行機に乗るまでの時間、最後のアメリカを楽しみました。と言ってもゲート付近の売店やお土産屋さんで残ったドルで絵葉書やお菓子を買うくらいでしたが、そこで買ったシアトルのダウンタウンのがとても素敵に見えました。ソフィーとうだうだ過ごしたポートランドのダウンタウンよりもだいぶ都会だということがわかりました。
そしてお土産が木彫りのトーテンポールや熊、それにスモークサーモン・・土地の名前もお土産も小さい頃に住んでいた北海道っぽさをとても感じて親近感を覚えました。この街にも行ってみたかったなぁと。
たった少しの乗り継ぎ時間でしたが、シアトル・SEA-TACで過ごしたことが、私にとってとても大きなことでした。この何年か後にシアトルに留学することにしたからです。
今みたいに画像も地図も情報もない時代だったので、あの時空港で感じた都会でも田舎でもない、自然が多くて北海道みたいなシアトルが心にずっと残っていました。

とうとう私たちは夏の間楽しんだアメリカを離れて成田に向かいました。
帰国便の機内では早くも逆ホームシックのようなものにかかっていました。
行きの飛行機ではCAさんに英語で飲み物をオーダーするのも英語を頭で考えてから緊張しながら話していたのに、帰りの飛行機ではサラッと言えるようになっているのも不思議な感覚でした。

長いフライトを終えて飛行機は成田空港に着陸しました。
機体のタイヤが滑走路にドンドンと着地した時、頭の中の周波数が変わるのがわかりました。夢から現実に戻ったような、何とも言えない閉塞感を感じました。

私と友達は2学期からアメリカのことばかりを考えながら過ごすようになりました。
そして今までとは行動が少し変わってきました。
一緒にアメリカを体験した友達と学校帰りに青山の紀ノ国屋や広尾のナショナルに行ってはアメリカのお菓子を買い、できて間もない西麻布のホブソンズでアイスを食べ、ソニープラザでアメリカの文房具を買い、アメリカの雑誌を読みまくり、ホストファミリーから届いた手紙を見せ合ったり、そのうちに友達と英語を少し使うようなアルバイトをしたり、なんとか気分を上げて過ごしました。
分厚い紙の辞書(電子辞書などなかった時代)を勉強の為ではなく、覚えたくて知りたくて調べるようになりました。
家では、あの平和だったアメリカの日々に寄せていこうと、なるべくテレビを見ないことにしました。

1986年昭和の末期、ネットも携帯もなくて情報はテレビや雑誌・本などのメディアでしか得れないという今では信じられないような時代。
たった1ヶ月でしたが、見たことも聞いたこともない環境で過ごして、はぐれメタルを100匹倒したくらいの経験値を得たように感じていました。
外から日本を見れたこと、異文化、流行、自由、新しい考え方。
あまり自由でもなければそんなに尊重もされてない、無駄に校則が厳しく、それが当たり前すぎて何も感じていなかった毎日に気づいて閉塞感と無言の圧を感じるようになったけれど、日本には日本にしかないホンワカした何かもあるなと感じるようにもなりました。

そして、何かを体験・経験するということがすごく人生を広げてくれるということを体感として学ぶことができました。

もう何十年も前の初海外の思い出ですが、すごく新鮮に心に残っているので長々と綴ってみました。
読んでいただきありがとうございました。

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