彷徨うおっさん2 未熟な宗教理解と依存(後編:信仰)

 一生懸命に生きているだけなのに、もがけばもがくほど、望まぬ経験をしてしまう。こんな風に生きたい、こうすれば解決するかもと、色々試しているうちに歳ばかり取る。大概の人はそうして一生を終えるのかもしれない。けれども、その歩みの全てを否定はしない。経験はすべて肥やしだ。自分にとってだけでなく、多くの人にもそうなり得るだろう。そのためにおっさんは今日も筆を執ることにする。

 前回はおっさんなりに神仏をどう捉えているか説明した。因果関係によって成り立つ現実社会では、居る居ないの話や偶像崇拝は、危うい依存を生む可能性があると指摘してきた。

 一方で、では神仏は無用かというと、そこまでは言わない。神仏は各々が想う理想と捉え、その存在を信じる、あるいは「仮定する」ことで、我々は多くの効用を得ることができるからだ。その効用を得る行為もまた信仰で、正しく捉えれば人々も健全たり得ると思う。

今回は前回の「神仏」に引続き「信仰」について、特に宗教家でもないおっさんが、自身の経験なども交えつつ考察していきたいと思う。

<信仰とはなにか>


 前回の神仏の捉え方をベースにすると、信仰は、神仏の存在を信じるかどうかよりも、「理想である神仏に近づくための行い全て」すなわち「生き方」と捉えられないだろうか。
 多くの宗教における「戒律や修行」は、その一つの現れで、特に聖職者であれば、自身が理想に近づく手段となる。また、修行を通じて得たものを社会還元し、より広く人の心を支える役割を果たすことは、理想の社会に近づく手段と言える。
 その実行への使命感もまた信仰であり、一般の人が良い生き方を自身に取り入れたいと肯定的に思えるならば、その人もまた信仰があると言って良いと思う。

<信仰という言葉への拒否感>


 とはいえ、上記を概ね肯定しつつも、信仰を持った人間扱いされることに抵抗を持つ人は多いと思う。それは現状では仕方がない。例えば以下の例のように、我々はしばしば、信仰という言葉を宗教以外でも使用することがあるが、それらに纏わる現状を見ても、信仰という言霊が持つ脅威に、世の中が支配されているのだから。

 ①オリンピックの設立思想、スポーツが世界を平和にする理念
  →現状は利権獲得と権力闘争に奔走する愚者の祭典の側面が露骨
 ②有名コメンテータなど「あの人の言う事なら安心できる」という思考放棄
  →完全でない一人の人間を全肯定する歪さは社会を狂わせる
 ③オタクコミュニティで好きな作品なり推しにどれだけ貢献したかで優劣競う
  →これも信仰の一種だが、信心の優劣を競うのは無意味

 これらは信仰の言葉の意味自体は間違えてはいないが、近年前面にあらわれている肩透かしや禍々しさであり、宗教における一定の思想、信仰対象、熱量への認知を歪ませているように思う。
 また近代にテロを起こしたカルトや、政治と宗教問題なども相まって、宗教や信仰に対する不信感が渦巻いている。結果「信仰を持つ人はなにかがおかしいのでは」と結論しても無理からぬ現状である。

 所謂妄信・狂信といった、特定の何かの存在や絶対性を信じること、或いはその対象への想いや熱量が、優劣や信仰心そのものを決定するわけではないのが。。。

<誤った信仰のあり方>


 他にも、おっさんが占いを体験したときのことを紹介する。
 とある案内人の紹介を受けて易者に連れて行ってもらったが、おっさんへの占い結果は、望みとはやや違っており、提言自体も慎重かつ曖昧なものであった。
占いとはそんなもの、どうとでも捉えられ、保険を多めに取った言葉が常だろうと、おっさんは意に介さなかったが、その結果を聞いた案内人は「またしばらくして占ってもらったら結果が変わるから!」と言い出した。
 熱のこもったその言葉に、案内人ご本人としては、慰めの気持ちもあっただろうが、同時に「こうあって欲しい」という想いもまた、激しく伝わってきた。
 だが結局、理想を追求する「自発的行為」をないがしろに、望む結果だけを繰り返し「外に」追い求める態度は非常に危うい。

 現在は過去の積み重ねの結果であり、未来は現在が作る。世の中は疑いようもなく因果関係で成り立っている。
 因果応報。自分の行いが自分に影響しないはずはなく、何度も占って良い言葉を待つ行いは、果たしてどう自分に報いてくるのだろうか。

 仮に神なる存在の絶対的言葉があるのだとしても、何もせずただ一心に祈れば、本当に望みが得られるものだろうか。そんな考えばかりでは、神様だって呆れたり怒ったりするんじゃないだろうか。

 宮本武蔵が吉岡流一門と対峙する前に神社を訪れた際の有名な言葉がある。
 「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」
 神仏に勝利を懇願せず、神仏を尊びつつも自己責任・自責思考で勝負しようという思いが見て取れる。
 シンプルに言ってこの距離感が最も正しい信仰ではないだろうか。

<信仰の扱い方と効用>


 正しい信仰は心の支えになる。前述の戒律や修行を通じて、誰かの心の支えとなる例もその一つだが、社会的規範や道徳に係る行為を通じて己を律する際、神仏の存在を信じる(ないし仮定する)ことで、成り立つ事象が多い点も見逃せない。

 例えば、偶然にも良縁に恵まれて、大成したとする。それを全部自分の実力のように言う人は、嫌われたり足元をすくわれないだろうか。

 また、世の中は陰で名乗ることも出来ず誰かを支え続けている人達も大勢いる。既に亡くなってしまい、お礼の言葉すらかけられない人達だっている。そうした人達に対して、我々はどのように報いたらよいだろうか。そんな時「神仏に手を合わせる」ことで、自身も支えてくれた人達もなんとか報われるのではなかろうか。
 対象を選び難いとき、より多くの人にリアクションする時などは、神仏がその対象となって受け止めてくれるのだ。

 一方で世の中には残念ながら、自己中心的な欲望を振り回したり、嫉妬に狂い、成功者の失脚に奔走するような輩もいる。こうした者たちも「神仏に手を合わせる」ことによって、いくらか留飲を下げてくれることがある。
 「神など信じない」と標榜しつつも、人は神仏に対する敬意を、生活習慣や周囲の人間の影響から抱いていることが多い。神仏はそうした「小さな信仰の欠片」を抱くものすべての良心に働きかけ、社会秩序維持や平和に貢献している。

 また、苦境や、上記のような困った輩に脅かされてどうにもならないような時も、「これは神仏の試練」と心を奮い立たせたり、「神仏は正しい行いを見ている」と信じることで、慰められたり、心を落ち着かせることができ、暴挙に出る手前で自制できたりもする。素晴らしい効用だ。

 これらの効用は、案外我々の心の自浄作用として、自然と染みついているのではないだろうか。それを素直に認識して信仰を正しくとらえられる限り、人々は健全でいられるのではないだろうか。


<神仏と信仰を正しくとらえれば、健全な社会が作れる>


 宗教に対して、現代日本人は苦手意識を持っているように思う。
 誤った信仰や、神仏の捉え方をしている人が社会を混乱させている例は枚挙に暇がない。一方で日本におけるそれら社会問題への自浄作用は著しく低いようにも思う。皆が宗教と距離を置いて切り離す一方、切り離された方は肥大化して脅威に育つのだ。
 間違った信仰を奉ずる人が絶えない限り、宗教問題は人類と不可分であると言って良い。ならば切り離すのではなく、正しく認識して相手に伝えることや、対処すべきところは対処する姿勢を持つことが社会問題の解決に役立つだろう。
 また、正しい信仰の元では個人は強くあることができるはずだ。その強い個人が集まれば、誤った信仰の暴走を抑えることだって可能ではなかろうか。

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