何故だか遠い

最近チクチクと心の中を刺してくる、
小さなトゲのようなものが気になって仕方が無い。
前からあったような気もするし、
それがいつのまにか腫瘍のように、
少しずつ大きくなってきたのかもしれない。

「他人の幸せ」について。

他人の不幸は蜜の味と言うけれど、
私はそちらのベクトルに関してはあまり秤が傾かないようである。
ただなんとなく、他人の幸せを見ると小さなトゲが飛び跳ねるように
心臓がキュッとなってしまう。

ここで私が「嫉妬」という感情を認めたとして、
どうして嫉妬してしまうのかが、なんとなく不可解なのだ。
嫉妬とは【厄介】なものである。

そもそも私は別段不幸では無い。
今、自分が生きる上で欲しい最低限の条件をピックアップすれば
それらのチェック欄は殆ど埋まる筈であるし、
私が羨ましく思う幸せの対象は
自分にも手が届くような、実に現実的な事象が大半である。

【厄介】の真相は、世の中に
「どんな状況でも幸せな人」と「どんな状況でも物足りない人」がいて
私は恐らく後者なのだと薄々気づいてしまったことなのだ。

これは本当に困ったことになった。
私はこれからも幸せを追い続けなければいけないし、
これからも幸せに追いつけないということなのだろうか。
となると、私は今何を求めて走っているのだろうか。

考えれば、一瞬の幸せは沢山ある。
仕事での達成感然り、悩み事を相談できる仲間もいるし、
恋愛面で別段困ったことも無い。
(この現状自体が面白くないと言ってしまえばそれまでだが)

だけど、ふとした時に虚無感は襲うし、全体を見た時はやっぱり
「自分が幸せだ」と胸を張って言うことが出来ないのだ。
どうしても。
幸せは何故か、そこにあるようで手に届かない。
まるで科学館に置いてある『錯覚の実験装置』みたいなものである。

「嫉妬なんて醜い感情、良くないよ」と言える人は
多分現状に満足している。
そして、きっとそう言う人が愛されキャラになったりして
結果幸せを掴みやすいのだということも知っている。
この場合、悩み事が無いとか楽観的とかは違う。
そういうことに気付いてしまって、
自分ってなんだかなあと思うのだ。

思うに、私のような人間は
一生懸命幸せを願うが為に、今ある幸せを取りこぼしやすい。
だって私は最近コタツ布団を買って、
コタツに電源を入れた瞬間確かに「幸せだ」と思った筈なのに、
そのコタツに入って眺めているインスタの出産報告に
「この人は幸せを手に入れている…」と安易にヤキモチを焼いているのだ。


それより久々にネイルを予約して、
「#ネイルデザイン」と予習いるときの方が余程心が綺麗だったではないか。
私は幸せというバトンを握り締めながら、
一生追いつかない走者にバトンを渡そうともがいている。
途中無造作に置いてある、嫉妬という障害物。
私はそこで躓く側の人間だ。
そうしている間に、幸せとまた距離が空く。

もしかして、まだ間に合うだろうか。
今掴んでいるバトンを誰にも渡さず、
ゴールまで走れるだろうか。

どうやらこのレース、
確かにある幸せを零さないように
ゆっくり歩いた方が遥かに幸せのようである。

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