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金魚鉢


江戸時代の忍者みたいな気分だ。
いつ、誰にやられるか分からない身分だと、
こういう気持ちで日々を過ごすのかしら。


朝、上靴を履く前にしなくちゃいけない習慣がある。

まずは中をしっかり覗いて、つま先の方に画鋲が入っていないか確認する。
画鋲を取り除いたら、ようやく履いて
それから教室へと向かう。

ここで安心してはいけない。
敵は思わぬ方向から攻撃をしてくる。
廊下でホウキを持っている者や、
教室の扉を開ける瞬間だって
警戒態勢にいる必要がある。

そしてようやく教室に入ると、
私の机にはいつも落書きがされている。
これもお決まりのパターンだ。

『学校に来るな』
『ブス』

丁寧にも日替わりで書かれている文字の羅列を、
毎朝消しゴムで消す。

これが、クラスメイトからの挨拶。
朝の儀式だ。

クラスメイトは、私のことをチラチラと見る。
それを私は無視してやる。

誰にも挨拶を返してやらない。
ただ感情を殺すのだ。

あとはワイヤレスイヤホンをこっそり付けて、
休み時間はグッと堪えれば良い。
好きな音楽を聴いている時間は、
嫌なことなどすっかり忘れられる。

私が出来ることは、それだけだ。


「それでは、来月の校外学習のグループを決めましょう」

4時間目。
先生の一声に、教室は一斉に盛り上がる。
先生は、さぞ自分が良いことを言ったかのように嬉しそうだ。

クラスメイトが歩き回る中、私はぼんやりと窓を見つめ続ける。
甲高い女子たちの騒ぎ声が耳に入るが、
そんなことは構わない。

私はただ、“余り者“が出来るまで時間が過ぎるのを待つだけだ。

「あと決まっていないのは、豊中さんと、欠席の河内さんね?」

「夢子はうちの班に入りまーす」

欠席をして存在していない河内さんは、
一瞬にして所属する権利を与えられる。

私はしっかりとこの教室に居るはずなのに、
誰も私のことを欲しがったりしない。

先生は、少し黙って黒板を見つめた。

白いチョークで班員が書かれている。
グループ1つにつき、4人まで。
その人数が到達していない所は、2つあった。

「豊中さん、どちらのグループに入る?」

先生は、あろうことか私に決定権を委ねた。

クラスメイトの白い眼が集中する。
誰も話さなくても聞こえてくる。

「うちの班を選ばないで」
という声と、
「奇数の班が可哀想だな」という2つの声。

いっそのこと、1人という選択肢があった方が、
余程マシである。

「良いじゃん豊中さん、うちの班に来たら?」

突然、先ほどまでとは違う声色が、耳に飛んできた。
それは空気が語っているものでは無くて、
実体のある声だった。

「うちの班、3人だし」

驚いてそちらを見ると、
川井さんだった。
川井さんの仲間らしき女子が、明らかに眉を潜めている。

「亜美、なんでそんなこと」

川井さんに小声で咎めているのは丸聞こえだった。

「私、嫌なんだよね、こういう空気。
それに私、豊中さんに何かされた覚えも無いし」

川井さんの仲間は、表情を戻すことも、
否定することも無かった。
丸く収めたい先生が、ホッとしたかのように黒板の文字を足した。

教室に、声が聞こえる。

「可哀想」
「川井さんって、良い子ぶってるよね」

どうして私にまで届くひそひそ声が、
先生には届かないんだろう。

私はなんだか、川井さんに感謝する気持ちにもなれなかった。

川井さんは、2ヶ月前に転校してきた。
なんだかとっても大人びていて、
友達の作り方もよく知っている。

転校を繰り返してきたのか、
生きることに慣れているような振る舞いだった。

川井さんの仲間が、私の側へやって来た。

「当日、休んでよね」

川井さんの耳に届かないように、
低い声で、私にだけ伝わるように。

そんな仲間を持つ川井さんのことを、
どうしても好きにはなれなかった。


校外学習は1泊2日となっていて、
それまでに決めることは沢山あった。
いつもは黙っていれば終わる1日が、
こうやって強制的に会話を要する時間が作られるのは
非常に苦痛だった。

その中で私はいつも
必死に息を殺す。

誰かに攻撃されるくらいならば、
存在をなくす方が幾らもマシだった。


「豊中さんは、どこに行きたい?」

川井さんは、地図を指差しながら問いかける。

それが余計なお世話。
お節介。
ありがた迷惑だとも知らず、
私の方に顔を向けてくる。

「ちょっと、可哀想だよ。
豊中さんは当日来れないんだから」

仲間はクスクスと笑っている。

私は黙って一瞬目を向けたが、
好きなコースに指を差す勇気は無かった。

結局私は、勇気が無い。
反撃する勇気も無ければ、
親や教師に告げる勇気も無い。

心の内では強気に構えているフリをするが、
それが相手に伝わることなど、微塵も無かった。

私はつい、下を向いた。
下を向くということは、相手に降伏したも同様だった。

この日の午後からは腹痛に耐えられなくなって、
私は遂に早退した。

川井さんが、私に声など掛けなければ。
存在を消すことには慣れているのに。

お腹の下の方が、シクシクと痛む。


校外学習まで、あと2週間。
休みたいなど、親に言える筈が無かった。
私が虐められているなんて、微塵も思っていないからだ。

部屋に置いているヘッドホンで、
好きな音楽を聴く。
涙を流すことなど忘れるくらい、
とびきりハードで明るいやつだ。

プレイリストを確認していると、スマートフォンの通知が届いた。

グループのメッセージから連絡先を追加したのか、
川井さんから個人メッセージだった。

川井さんは早退の心配と共に、
校外学習の連絡事項を送ってきた。

私は当たり障りなく、
ありがとうと送った。

『校外学習、来るの?』

川井さんの返信に、
一瞬心臓がドキドキと鳴り響いた。


学校ではあんなにも善人ぶっていたのに、
彼女の本性はあちら側だったのだ。

人間の裏側が見えた気がしたからだった。


「明日、学校に来れそうだったら
少し話がしたい」

川井さんはメッセージを続ける。

私はもう返事をする元気など無くて、
そのままスマートフォンを置いた。


私はすっかり人間不信になっていた。

唯一この世界から離れられる夢の中でも、
最近は嫌いな人が毎晩出てくる。

今まで私の夢の中は、
当たり前のように友達が居て、
お昼ご飯だって教室で食べることが出来たのに。


次の日、川井さんは放課後を見計らって
私に声を掛けてきた。

「一緒に帰らない?」

仲間は周りに居ないようだった。

私が返事に戸惑っていると、
川井さんは続けて言葉を発した。

「由美子と藍が2人ともクラブ活動の日、
水曜だけなんだ」

今日を逃したく無いと言った口ぶりだった。

私は頷くことも無く席を立った。

川井さんは何も言わず、横に並んで歩き始めた。

皆不思議がって、声を掛けることもしなかった。
やっぱり大人びた川井さんは、
そんなこともお構いないようだった。

学校を出て漸く、川井さんは口を開いた。

「昨日のメッセージ、誤解しないでね」

昨日のメッセージ、に理解することにコンマ数秒掛かった。
校外学習のことだ。

「どうして川井さんは私に構うの?
そんなことしてると、川井さんがターゲットになるよ」

ずっと気になっていたことを聞いてみた。
川井さんは少し前に出て、
こちらを見ることなく歩き続ける。

「良いの。
どうせまたすぐこの学校から居なくなるから」

川井さんは鞄に、知らないアーティストのキーホルダーを付けている。
歩くたび、アクリルで出来たそれはユラユラと揺れる。
音楽が好きな私も知らない、
きっととてもマイナーなアーティスト。

「だから、私は味方にもなれないんだけど。」

今までもきっと、沢山転校を繰り返してきたのだろう。
私はそれさえも羨ましかった。

「多分、豊中さんは信じないと思うけれど」

川井さんは数歩前を歩いたまま、
ゆっくりと呟くように言葉を放つ。

「私、本当は10年後の世界から来てるんだよ」

「え?」

思わず立ち止まった。
余りにも真面目な顔をして呟くものだから、
笑うのが正解なのかも分からない。

「10年後に、教師をやってる
それも初めての担任」

川井さんは公園を通り過ぎる辺りで、
一瞬立ち止まって右折した。

ベンチに座るので、つられて座った。

「10年後、私は研究対象として学生に戻ることになる。その時いつに戻りたいかと聞かれて、
私は担任をやっている年齢の、中学生を選んだ」

信じられる訳は無かった。
だけど、嘘だとしても興味深いことは確かだった。

「教師をしているって、学生の気持ちを分かる為に勉強として戻ったってとこ?」

川井さんはゆっくりと首を横に振る。

「大人の私は駄目なのよ。
教師はクラスのイジメを認めると、
途端に駄目な教師になる。
その視線に恐れて、
私は虐められている生徒を見て見ぬフリをした。無かったことにしたの」

川井さんは下を向いていた。
社会的降伏だ。
こんなにも大人な川井さんが、
仮にもダメ教師だなんて信じられなかった。

「その生徒が、半年前に学校の屋上から飛び降りた。
一命は取り留めたけど、そういうとき問題になるのって担任なの。
何も出来なかった私の責任。
私は問題教師として、実験対象に選ばれた」

なんだか深刻な話題に、
つい信じざるを得なくなってきた。

「だけど、川井さんはもしそうだとして、
その生徒への罪悪感から私を助けるの?
残念だけど私にとって貴方のお節介は
全く有難いと思えない」

「悪いけど、私は期限付きの生徒。
根本的解決をする程の力は持っていないの」

これが大人なのか。
正義感だけで動かない。
理屈で動いているのは益々ドライに感じられて、
寧ろ突き離されているようだった。

「だけど、私が豊中さんに送ったメッセージは本心。貴方より10年長く生きてきて、それから言えるアドバイスは、『校外学習なんて行かなくて良い』ってこと」

驚いた。
先生としての立場を知っている筈ならば、
行事を休みなさい等言う筈無いからだ。

「本当に10年後先生をやってるの?
そんなこと先生が言っても良いの?」

「豊中さんが今いる世界は、動物園の檻。
金魚鉢の中だと思っても良い」

金魚鉢の中。
私は頭の中で、窮屈な空間を右往左往する金魚を思い浮かべた。

「こんな小さな世界の中で生きないで。
中学生の貴方がいる世界は、とてもちっぽけなの。
外の世界には、もっと沢山の選択肢がある。
それだけは、胸を張って言える」

「だからって、校外学習を休んで良い理由には」

「校外学習なんて、そんなちっぽけな世界で行われるちっぽけな出来事に惑わされないで」

校外学習は、中学校のイベントでも修学旅行の次にビッグイベントだった。
だからクラスメイトは浮ついているし、
幾つもの授業だって潰して、当日のことを決めていく。
そんなに時間を使って一泊二日、我々は山を登ってキャンプファイヤーなんかをするのだ。

「それってとても馬鹿馬鹿しくない?」

川井さんは小さく腕を上げて、
不可解な素振りを見せた。

「馬鹿馬鹿しい…」

そう思った瞬間、肩についた重たい何かが
スッと取れた気がした。

「再来週の水曜日は、地域のバンドサークルに顔を出してみるの。豊中さんもどう?」

「そんなものがあるの?」

再来週の水曜日は、校外学習の当日だった。
校外学習よりも、断然楽しそうだ。

「…行く」

川井さんは微笑んだ。
何でも知っているような、落ち着いた微笑みだった。

「本当に、期限付きで帰るの?
10年後に?」

「あと2ヶ月かな、何も問題無ければ。
私は戻って、今度は間違わないように、
また先生として大人になるの」

川井さんは立ち上がった。
私も後に続いて、立ち上がる。

期限が来たら、胸のバッチでも光るのだろうか。


信じられる訳では無いけれど、
この瞬間から私にとってヒーローだったという事実は、
きっと10年後も変わらないだろう。

その時にはきっと、
川井さんはもっと良い先生になっている。


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