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あのひみつ道具は『夢』じゃない


どこでもドアは一生出来ないんじゃないかと思っていた。

昔、小学生の頃。

ひみつ道具を科学的に作る方法、
または既に開発されている道具が載った雑誌を読んだ。
(『ぼくドラえもん』だった気がするが、余りにも記憶が曖昧な為
雑誌名は省略する)

そこに、どこでもドアはブラックホールの仕組みがどうとか
ワームホールがどうとか書いてあって、
私はそのとき子どもながらに、
どこでもドアは一生作られないのだと悟った。

幼少期の曖昧な記憶に加えて科学はこれっぽっちも分からない私なので、
これだという適切なサイトを貼ることが出来ない。
どうか興味のある方はネットで拾ってみて欲しい。

まあつまり、どこでもドアを作るには
宇宙の不思議を解明するくらいの気力と根気がいるということだ。


しかし私は、今まさにどこでもドアのような物を身近に使っていると気がついた。

テレビ電話、最近ではzoomである。


大人になって今の生活をして、
漸く気が付いた。

今どこでもドアを使うならば、
友達に会いに行くだろうなと。
ふと考えて気が付いたのだ。


私たちは、遠く離れた人たちに
電波という科学を使って会いに行くことが出来る。

例え流行病が起きて遠方を行き来出来なくなろうと、
会いたい人に会う文明は、既に開発されているのだ。


思い返してみると、
それは突然生まれ馴染んだ訳ではない。

そもそも私たちはSNSを使って、
知らぬ間に進化を受け入れていたのだ。

昔は手紙でのやり取りが主流だった。
それは届くまで時間が掛かるし、
相手の顔を見て、というよりは
見えない相手に書くという感覚に近かった。

それを人々は『文通』と言った。

今私たちが行っている文字のやり取りは
文通の文化では無い。
『会話』である。


文通がメールになり、LINEやメッセージになった時
私たちは遠方で会話をする文化を身につけた。

短文をテンポ良く送り合うこと、
これを会話以外になんと言おう。

そして私たちは遂に、
無料でテレビ通話をする時代までやってきた訳である。


どこでもドアの便利さを、
最近身に染みて実感している。

一人暮らしを始めて数年、
地元に帰るのは年2回程。

それでも寂しく無いのは、
会話をしてくれる相手がいるから。
どこでもドアで会いに行ける人がいるから。

きっと文通の時代に生まれていたら、
私は寂しさの余り月を見ながら
歌でも読んでいたことだろう。

それに、気軽に会える時代だからこそ
人々は新しい一歩を踏み出しやすくなった。

今までとは違う、新しい地へも。
そうすることでまた、未来への可能性が広がった。

遠い場所に住む友達と
酒を交わすことだって出来る。
コイバナをすることだって出来る。

科学の可能性って、凄い。


残念ながら、今のどこでもドアは
唯一画面をくぐり抜けることは出来ない。

だけど私があの雑誌を読んだ時よりは、
確実に『可能』が近付いている。

どこでもドアは、夢なんかじゃない。


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