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死の前で生きる

「死のう」が私の口癖。
周りの人から怒られたことが何度もある、冗談でもそんなこと言うな、って。
私だって馬鹿じゃない。本当に死にたいと思っている人、死ぬつもりはなかったのに死んでしまった人、これらの人たちに対し不謹慎である。そんなことはわかっている。私だって人間、心があり感情がある。テレビで流れて来る死んだニュース。どこの誰かも知らないのに、悲しくなることだってあった。

でも、いつだって“死”は身近に感じられなかった。
だから、ちょっとしたことで「死のう」と言ってしまう。本当に死にたくなったときもあったけど、ほとんどは些細な出来事だった。

そんな私が出会ったのが、ドイツの哲学者である「マルティン・ハイデガー」だった。ある日、本屋で働いていた私は、彼の「存在と時間」というタイトルの本を見つけた。どんな内容か少し気になり作者について調べたところ、死と真っ向から向き合った哲学者であることがわかった。死を身近に感じられない私は新しい知見を求め、マルティンハイデガー氏の作品を読んでみることにした。

今回読んだ「存在と時間」では、人間の存在について、人生の死を通して書かれていた。
はじめに「存在」について。そもそも存在とは、いまここにいるという意味であり、存在という概念に意味を持たそうとしているのが人間であると定義されていた。私自身、人生に存在意義を求めていたので非常に共感できたのだが、もっとも興味を惹かれたのは次である。
自分の存在について、自分の人生がどのようなものであったか、これらは死をもって完成すると定義されていたのだ。ハイデガー氏は、どんな人間でも代用可が能であり、また不可能でもあるとしていた。なぜなら、死ぬことは、自分自身でしかできず、人に代わってもらえないからである。私がここで学んだのが、「死を見据えた生き方」である。
死を見据えた生き方とは、残された時間を自覚して生きることである。自分の死をはっきりさせることで、これからの時間をフル活用して生きようと考えられるようになった。

今まで代わりがきくような生き方で毎日を浪費していたが、自身の死を感じることで、私だけの時間をこれから歩んでいきたい。

口癖はたぶん治りません。

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