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大波でも、さざなみでも

先週末は3回忌の法要だった。
父がこの世を去って丸2年が経つ。

亡くなったのが秋で、戒名にも「秋」がつく。
ほんとうに、秋のような人だったな、と今思う。

明るく晴れ晴れとしたところもあるけれど、
どこかに淋しさや憂いを持っている人だった。

穏やかで争うことをしない人だったけれど、
頑固でテコでも動かないところのある人だった。


先日、めずらしく夢に父が出てきた。
父らしく、おしゃれして。

「病気はもう治ったのだな」
夢の中でわたしは、父に逢えたうれしさよりも
父が少し若返って、元気でいることにホッとしていた。

少し浮かれたような、楽しそうな顔をしていた父は、
どうやら、夏に生まれた曾孫の顔を見に来たようだった。
その日は偶然にも、曾孫の100日検診の日だった。

父はもうこの世にいないけれど、
父の遺伝子は、姉から甥へ、
甥から生まれてまだ100日の子へと受け継がれ、
生きている。


父の死はわたしにとって、大きな事件だった。
悲しいというよりも、驚きの連続だった。

父は人間が老いていく、ということを、
父の人体全部を使って見せてくれた。

そして最後は目の前で、
人間が息を引き取る瞬間まで見せてくれたのだ。
その介護と死を、たぶんわたしは一生忘れないだろう。

けれど、わたしがどんなふうにそれを伝えようとも、
父を知らない人にとっては、
どこにでもある、普通の老人の死、でしかない。

人の死は、その近親者にとって「大波」だけれど、
死者から関係が遠ざかっていくほど「小波」になり、
「さざなみ」になっていく。


この小説の主人公、ナスミの死もまた同じ。
けれど「さざなみ」は、たとえ小さくても
たしかに「誰かのなにか」を変えていくのだった。


『さざなみのよる』 木皿泉

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「死ぬって言われてもなぁ」 。
43歳の若さでこの世を去ったナスミ。
その死はやがて、家族や友人、知人、面識のない人へと、
どこかでなにかを変えていく。
日常が日常でなくなったいまこそ読みたい、心にそっと触れる物語。


自分なんて、いま消えてしまってもなんの影響もない。
そんなふうに思う人がいたら、
わたしはこの本を贈りたい。

重くないし、軽くもない。
けれど、あたたまる。そんな本だと思う。



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