バイリンガル教育の前に知っておきたい「日本語で育つ」ことにより身につく独自の感性と感受性について
英語で歌い出した幼い女の子
赤坂へ向かう地下鉄に乗車してほどなく、目の前の座席に座る5歳くらいの女の子が突如「カントリー・ロード」を歌い出した。これくらいの年齢の女の子にありがちなことだが、どこか得意そうな様子が見て取れる。
私は、沈み込むような心境になり、つり革を掴む手に思わず力が入った。極めて残念な、嫌な気分になったのだ。
幼少期から英語教育をおこない、留学を経て海外でもバリバリ働けるようになってほしい。
そう願う親は一定数いるもので、私はそれが悪いとはこれっぽっちも想っていない(そもそも良いか悪いかという判断が欠落している)。
そうではなくて、言語というものが脳、ひいては人間性に与える影響について考慮しているのだろうかと心配しているのだ。
もっといえば、日本語という特殊な言語が、日本人の特性を育て上げ、今や海外の有識者がそれについて驚愕と羨望の念さえ抱いていることを理解した上で、あえて英語教育をしているのだろうか、と、案じている。
日本語をつかうことにより脳の仕様も変わる
サミュエル・ハンチントン教授は、『文明の衝突』において、世界を7つの文明に分けた。6つの文明はいくつかの国により成り立っているが、ただひとつ「日本文明(文化)」は日本のみである。これを「孤立している」と訳されているが、言い換えれば類を見ない「孤高の存在」ともいえるのではないだろうか。
そして、その日本の文明文化をかたちづくるうえで強く関係しているのが「日本語」であろう。むしろ、「日本語」が日本の文明文化を形成したと見ても、過言ではないはずだ。
明治半ばにお雇い外国人として来日し、日本人の妻をめとり帰化した英国生まれのギリシャ人ラフカディオ・ハーンは、日本人が虫の音を聞き分けることに驚いている。
その理由は現在、脳科学の分野でも明らかにされつつある。大ざっぱな説明になるが、日本人は虫の音を言語野である左脳で聴いているのに対して、欧米人など他の人種は右脳で聴いている。右脳は音楽などを聴く際に使われるため、かえって虫の声は「雑音」に聞こえてしまうのだという。鈴虫だ、松虫だ、コオロギだと聞き分けることなど当たり前に出来る私たちからすれば、雑音に聞こえてしまうことの方が驚きだ。
このように日本語を使うことによって、脳の仕様まで変わってしまうのである。
目に見えないものを察知する繊細な感性
女の子がしきりに英語で歌を歌うのを聴くでもなく聴きながら、私はふと童謡を思い出していた。秋の歌といえば、『小さい秋』がある。
サトウハチローさんの作詞、中田喜直さんの作曲で、童謡としては比較的新しい1955年の作品である。
誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた
小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた
このフレーズは、何も考えずに口ずさむことが出来る人も少なくないだろう。この詩の山場が特徴的だ。
目隠し鬼さん 手のなるほうへ
済ましたお耳にかすかに響く
呼んでる口笛 百舌の声
情景が浮かぶだろうか。目隠しをした鬼役の子が、一生懸命に耳を澄ませて友達の気配を伺っている。そこへ、百舌の声が聞こえてくる。
百舌の声が、もう秋を表している。
これが「小さい秋」=秋の気配を感じ取った瞬間、見つけた瞬間なのだ。
二番、三番は、こんなふうに続く。
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 溶かしたミルク
わずかな隙から秋の風
昔の昔の風見の鳥の
ぼやけたトサカにハゼの葉ひとつ
ハゼの葉赤くて入り日色
これらはふと目にした光景から、寂しい気配を感じ取り、それこそが秋の気配であることを示しているのである。
ちなみに、「昔の昔の風見の鳥の」と、「の」を繰り返すあたりは、和歌に通じている。たとえば、「あしびきの ながながし尾の しだりおの」といったように、あえて「の」を重ねることにより独特のリズムと深まりが出る。
三番で「トサカ」「ハゼの葉」「入り日色」と、日本ならではの朱色=秋を象徴する色でしめくくるあたりも流石としかいいようがない。
これを英訳しても、この感傷は伝わらないだろう。
もっとも、昨今の若い世代は、こうした感性が失いつつあると危惧する研究者もいるくらいだから、「小さい秋の何がいいの?」と問われてしまうのかもしれない。
日本語の語彙が増えると、なぜか外国語修得の能力が上がるという不思議
感性は想像力に不可欠であり、想像は創造へと向かっていく。
だから鋭い感性、深い感受性は、これからの時代を生きる上で、私は極めて重要だと想っている。もちろん、豊かな人生を生きるうえでも宝となる。感性が豊かであればあるほど感動も多くなり、従って人生が深く高くなるからだ。
せっかく日本人として日本に生まれ、当たり前に日本語を使って生活できる状況にあるのだから、それを有り難く受け取ったほうがいいのではないか。英語教育を行うのと同時に、可能な限り美しい日本語に触れることを、私は強く推奨したい。
ところで、不思議な話がある。
これはバイリンガル教師としてブラジルで暮らす日本人女性(夫はブラジル人)と、両親共に日本人だがフランスで生まれ育った女性に伺った話だ。両者は友達同士でも何でもなく、また、伺った時期も全然別であることを念のため述べておく。
「日本語の語彙が少ないと外国語を修得するうえで、なぜか壁にぶち当たり、なかなかそれを越えることができない。そして、日本語を学び直し、語彙を増やしたところ、急に外国語能力も向上した」
これには私も驚いた。が、どうしてそうなるのか、今もわからない。
しかしきっと何か理由があるのだろう。脳の成長発達については、まだまだ知り得ないこともたくさんあるのだから。
ただ、このような経験に基づいたケースは、大いに参考にすべきだと想っている。
あのころ、私も5歳だった
余談だが、「カントリー・ロード」は1971年にヒットしたアメリカのフォークソングで、当時、私は5歳だった。
(これを書きながら妙な偶然に驚いた)
両親がやや西洋かぶれだったこともあり、当時の私は「ディズニー」という幼児雑誌を与えられていた。また、毎月一冊「キンダーブック」から童話の本が送られてくる。いずれも楽しみにしていた。
それから、動揺絵本というのだろうか、歌詞が綴られた絵本と、ぺらぺらのレコードもどきがセットになっているものがあった。これは9歳上の姉のお下がりだったと思う。
硬いセロファンのようなレコードもどきをセットして、そっと針を落とすと、歌が流れ出す。童謡のほとんどは、そんなふうにして覚えたのだろう。
父の書斎はいうに及ばず、居間や廊下など家のあちこちに書棚があり、本は暮らしの中にあった。どの家も似たようなものだろうと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。
ありがたい環境で育った。5歳の私は、感性の中で生きていた。
【追記】
記事をFacebookに共有したところ、貴重なコメントをいただきました。非常に参考になるご意見なので、ご承諾いただいたうえで転載いたします。
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