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月の海辺

 夜になってから、あんまりしめった風が吹くものだから、私は不意に彼女のことを思いだした。
 潮の香りが含まれていたせいだろうか。
 海辺で暮らしていた彼女は、ほのかに潮の香りがしていた。
 いや、それは私の勘違いかも知れない。小麦色の肌をした彼女の醸し出す雰囲気が、潮の香りを連想させただけだったのかも知れない。
 彼女について私の知るところはとても少ない。それどころか、今では名前も思い出すことが出来ない。
 
 昔、私が勤めていた雑貨店の向かいに、輸入物の洋服屋があった。
 ある日、私はその店長の家に遊びに行くことになり、それが彼女との初めての出会いになったのだ。
 あまりおしゃべりをしない人だった。けれど、絶えず静かなほほえみを浮かべていた。 長い髪を無造作に束ね、スカートの替わりにインディア・コットンを腰に巻き付けていた。
 私はてっきり店長の奥さんだと思い、そのことを言うと、彼女は笑って否定した。
「十年近く一緒にいるけど、結婚はしてないの」
 私はそれ以上のことは訊かなかった。


 二人が暮らしてきたその家は、海岸から道を一本隔てたところにある古びた平屋建ての日本家屋だった。すぐとなりにも同じような家があり、庭が共有になっていた。
 私たちはその庭でバーベキューをした。肉や野菜を持って庭と家を行き来する彼女の動作は、とても優雅でしなやかだった。
 食事の合間に、ビールを飲んでいくらか陽気になった彼女と他愛のない会話を交わした。その中で私が憶えているのは、飼っている猫の名前が「うるめ」だということと、茅ヶ崎で友人と二人で手作りの雑貨の店をやっているということだけだ。
 猫の名前は彼女がつけたらしい。「目がうるうるしてるから」と、愛おしそうに黒虎の猫をなでてやりながら言っていた。
  店長は途中から加わった隣人と談笑していた。年輩の男でサーフィン仲間のようだ。


 あたりはすっかり暗くなっていた。彼女は「少し散歩しましょうか」と私を誘った。
 国道をわたって砂浜へ降りてゆくと、真っ黒な海が広がっていた。夜空と海の堺はまるっきり解らない。波音だけがやたらに大きく耳に響いた。
 私は平均感覚を失い、危うく転びそうになった。と、彼女の腕が素早く動いて私を支えた。
 彼女はすぐに手を離したが、ひんやりとした感触が私の肘のあたりにいつまでも残っていた。
 私は足元ばかりに気を取られながらやっと歩いた。それに引き替え彼女は昼間の浜辺を歩くような軽やかさで歩いていた。私たちはほとんどしゃべらなかった。しゃべらずに一緒に居ることが心地よかった。

 しばらくして、歩くことに慣れたとき、私はふと空を見上げた。すると、見たこともないような大きな月が浮かんでいた。しかも不思議なだいだい色をしている。前をゆく彼女は、まるで月に向かっていくように見えた。
「あんなに大きな月が・・・。まるで『月の砂漠』みたい」
 私の声に彼女は振り返った。海風に髪をなびかせて。逆光のため表情がほとんど見えなかったけれど、笑っていることが感じられた。
 けれど私は、笑い返すことが出来なかった。
 彼女がそのまま月の光に吞み込まれていきそうで、怖くなったためだ。
 思わず彼女の腕をつかまえると、「そろそろ戻りましょうよ、心配してると思うから」と、早口に言った。

     彼女の存在は、私に強烈な印象を残したにもかかわらず、日常生活の中で思い出すことは皆無だった。
 向かいの店で、店長は相変わらずやる気なさそうに働いていた。彼はその日の波のことや、庭に植えたキュウリの育ち具合ばかりを気にしていた。私は「庭のキュウリ」から、ふと彼女のことを思いだして、元気かどうか訊いてみた。
「居なくなっちゃったんだ」
 私はびっくりして口をぽかんと開けた。別れたのではなかったらしい。ある朝起きてみると姿がなくて、それっきりまだ帰ってこないらしかった。 そんな事情を話している店長は迷子の子どものように頼りなげに見えた。  

 私が仕事を辞めるまでの間、向かいの店長の彼女が戻ってきたという話を聞くことはとうとうなかった。もしかしたら茅ヶ崎の彼女の店を探し当て行ってみたら、そこにいるかも知れない。
 が、そうするほどの間柄でもなかった。
 それなのに、不思議と忘れることができない。
 なぜ、私は訪ねていこうとしないのだろう。幾度も考えた。
 けれど答えは見いだせず、やがて理由を考えることそのものが、馬鹿げていると感じるようになった。
 触れずにいるほうが良いことが、きっと、あるのだ。
 時は流れることをやめない。
 けれど彼女は、そのときの姿のまま、今も私の中にひっそりと座っているのだった。 

                          (了)

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)

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