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壊れかけたボート

この作品は『月の海辺』の続編です。

 9月になると私は海辺に足繁く通う。
 人がまばらになった秋の浜辺の雰囲気が、とても好きなのだ。
 その日私は、茅ヶ崎の浜辺にいた。
 辻堂駅で降りて、あてもなく浜辺を散歩していた私は、うっかり茅ヶ崎まで来ていたのだ。茅ヶ崎の海には、「烏帽子岩」と呼ばれる岩が波間から突き出ているので、すぐにわかる。
 陽が傾きかけていた。ずいぶん歩いてしまったものだ。
 暗くなる前に帰ろうと、私は海に背を向けた。
 
 駅へ向かう途中の住宅街には、ぽつりぽつりと店がある。儲かっているかどうかは怪しかったが、趣味の良い店が多く、経営者も特に売り上げを気にしているふうではないように感じられた。
 そんな店のひとつが目に入り、足を止めた。
私は突然インスピレーションを感じた。おぼろげな何かが胸の内に沸いてくる。それはいったい何であるのか、その形を確かめようとあらゆるタイムラインを手探りした。
 不意に「その姿」がはっきりと浮かび上がった。そのとたん、まるで許可を得たかのように、足は店に向かって運ばれていった。
 
 店の前に立って、私は確信した。
(彼女の店だ)
 確認できたわけではなかったが、その店が醸し出す雰囲気が、何よりそれを証明していた。きっと間違いない。
 私は恐る恐る、その店のドアを開けた。からんからん、と乾いた音がひかえめに鳴る。
奥のほうから、「いらっしゃいませ」と、くぐもった声が聞こえた。
 声の主は、レジを置いた小さな机で、何か作業をしていたようだ。縁のない眼鏡の向こうで、焦点の定まりきらない瞳がこちらに向けられていた。
 ああ、やっぱりそうだった。
 私はそう思い、思うと同時に彼女が三ヶ月前から一緒に暮らす恋人のところから姿を消していたことや、たった一度共にした夕御飯や、夜の浜辺を散歩した時のことなどを、次々と想い出した。



「あ、あのときの」
 彼女は、今度ははっきりと私の顔を認め、そう言った。憶えてくれていたことが、嬉しかった。
「はい、店長のところの、向かいの店の佐伯です。憶えていてくれたんですか」
 彼女の恋人は、私が働いている雑貨店の向かいにある洋服屋の店長なのだ。彼とは、勤めて間もない頃から親しくしている。
「うん。客商売してると、顔はすぐに憶えるの。でも、ごめんね、名前は忘れてた」
彼女は、そう言って、うふふと笑った。
「私も、名前を覚えるのが苦手なんです。えーと、すいません、もう一度教えてもらえますか」
「椎名めぐみ。学生時代からシーナって呼ばれてるの。慣れてるから、そう呼んで」
 言いながら彼女は、机の上の作業道具を手早く片づけていた。それは以前見た、あの優雅で伸びやかな動作だった。
 
 机のこちら側に小さな椅子を用意すると、彼女は一度カーテンの向こうに引っ込んで、コーヒーを手に再び現れた。
 歩きすぎた後で飲むコーヒーが、疲れを癒した。それは私の知らない香りがしていた。軽やかで香ばしく、でも深みのある、不思議な味だ。
「おいしい、これ」
 コーヒーを飲む私を見ながら、彼女はまた、うふふと笑った。
「めずらしいでしょ。ハワイのコナコーヒー。この前買ってきたの」
 先ほど想い出したことが、再び私の脳裏をかすめた。
「旅行、行ってたんですか?店長、シーナさんがいなくなったって、すごくしょぼくれてましたよ。私、結構慰めてあげたのに、帰ってきたこと、ぜんぜん教えてくれなかった。障らぬ神にで、私もなんにも訊かなかったんですけどね」
 私はちょっと口をとがらせて見せた。
「あ、あの人のところには、まだ帰ってないの。日本に帰ってきてから、ずっとここに寝泊まりしてるから。遊んでたら、仕事、たまっちゃってね」
 彼女の口振りからは、特になにか理由があって出ていったようには思えなかった。
 でも、なぜ彼に一言帰ったと伝えないのか、彼もなぜお店に彼女がいるかどうかを確かめようとしなかったのか、私は不思議に思った。しかし、そこまで訊くのは、何か立ち入りすぎてしまうような気がして、黙っていた。
 何となく所作なくて、周りを見回すと、インド綿の小物や貝殻と木でできた飾りなどが目に付いた。それは彼女の持つ雰囲気をそこはかとなく醸し出していた。



 それからというもの、私は休日になると彼女の店を訪ねるようになった。特に約束はしなかったが、何となく逢いたくなって、気がつくと足が向いている。
 行くと、彼女はいつも小さな机でデザイン画を描いている。そして、私の姿を認めると、決まってコナコーヒーを淹れてくれた。
 彼女が店長のところへ戻ったのかどうかということは、訊きそびれていた。それよりも、私は彼女との他愛のないおしゃべりが楽しかった。
 もっとも、あまり喋らない人で、一緒にいても会話が途切れることがしょっちゅうあった。しかし、その沈黙は心地よいものだった。彼女といると、まるで潮騒を聞きながら、浜辺でまどろんでいるような気持ちになる。
 おそらく私は、それを求めて彼女のところへ行くのだ。
 
ある日彼女は私に言った。
「あの人、昨日お店に来たの」
 私は少し驚いた。彼女と時々逢っていることを、店長には未だ言ってなかった。別に隠しているわけではなかったのだが、言いづらかったことは確かだ。その店長がここに来たと聞いて、何となくばつが悪くなった。
「そろそろあの人のところに帰らなきゃ。あの人ね、子どもみたいに、なんにも出来ないの。元気のない顔見てたら、いじめてるみたいな気になって、ちょっとかわいそうになっちゃった」
 少し迷ってから、私は訊ねた。
「どうして今まで、帰らなかったんですか?シーナさん、店長のこと、好きなんでしょう?」
 彼女は商品タグを細い指先でもてあそびながら、静かに笑った。彼女はいつでも声をあげて笑うことがない。
「私、見ちゃったの。あの人が若い女の子と歩いてるの。隠れて後つけちゃった。そしたら、ホテルに入っていったの。あの人、時々そういうことするの。そのくせ、私がいないと、なんにも出来なくて。それでもいいやって思ってたんだけど、私だって時々耐えられなくなっちゃうのよね」
 私は彼女のざっくりとした白いコットンセーターを、ぼんやり見ていた。軽く日焼けした素肌に着たそれは、彼女によく似合っている。
 十年近い歳月を、彼女はどんな想いで恋人と過ごしてきたのだろう。彼女がいなければ、浮気もできないような恋人と。
 彼女がどれほど彼のことを想っていて、どれほど傷ついているのか、私には想像できなかった。ただ彼女はいつも、寂しげだった。逢いに行こうとするたびに、もしかすると消えているのではないかと思うほどに。



 彼女はふと顔を上げると、私にとても重大なことを話した。
 それは、二人が子どもを持つことが出来ないカップルだということだ。彼女は妊娠できても、彼にその能力がないということだった。
「きっと、あの人、若いときに無茶しすぎたのね」と、彼女は言い、うつむいた。
 不妊治療をすればいいのにと、言ってみたが、彼女は静かに笑って首を横に振った。
「あの人、自然主義でしょ」
 軽い口調で言ったその言葉が、行き場のない風船のように頼りなく浮かんだ。
 私は何も言葉を返せない。そして、彼女が泣き出してしまうのではないかと、恐れた。しかし、彼女は泣いたりはしなかった。
「ごめんなさいね、こんなこと話して。きっと誰かに言いたかったのね。すこし、楽になったみたい」

 シーナさんは、きっと子どもが欲しいのだ。
 彼女のそんな想いを、彼はたぶん知っている。そして、もしかしたら、それを叶えることが出来ない自分自身を悔やみ、自暴自棄になっているのかもしれない。
 それでも、二人は離れることが出来ず、かといって結婚に踏み切ることも出来ずに暮らしてきた。そしてこれからも、同じように暮らしていくのだろう。
 そんな二人が、まるで壊れ欠けたボートを操りながら大海原に浮かんでいるように感じられた。
 
「いつ、帰るんですか?」
 彼女は頬にかかった後れ毛を耳に掛けながら、「今夜」とだけ答えた。
「きっと、店長喜ぶと思う」
 私は努めて明るく言うと、彼女は何も言わず微笑した。
 窓から夕暮れを告げる陽射しが差し込み、店の中はだいだい色に染まっていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
 私がバッグを手に取ると、彼女は言った。
「こんどまた、夕御飯食べに来てね」
 店の前でひらひらと手を振る彼女の髪が、一陣の風に舞い上がる。
 その時はじめて、今日はまとめ髪でなかったことを私は知った。
 
 ひんやりとした潮風が、頬をかすめていく。
 夕暮れの、駅へと続く道が、すでに馴染み深い風景になっている。その風景のそこここに、今しがた見た彼女の微笑が、ちりばめられては消えていった。
                          (了)

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)




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