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道と時間、茶の湯の稽古

今日はお稽古納め。
万感の思いを込めて先生のために一服を点てよう。
ふと見上げると雲ひとつない冬空を真っ白な飛行機が悠々と泳いでいた。
長らく空を飛んでいない。
月に2、3度は機上の人だった。それは、ほんの2年前なのになんと遠いのだろう。
時間というものの曖昧さを思う。
時間というものは実は極めて個人的な概念のもとで成り立っているのではないか。
たぶん、半分は当たっている。

今年最後のお稽古を無事に納めた帰り道、澄み切った空を見上げると、俄に年の瀬の色が見えた。
何度も教本で確認し、動画を繰り返し見たところで考えながらお点前するようではまったく成らない。
むしろ無になり体が動くに任せてこそ、自ずから成る。
そんなことがつくづく身に染みた。
行ずることでしか、本物には成り得ない。
師匠が何十年と行じてきた、その時間の濃さを思うとなんと遥かな道だろうと感じる。
翻って今の軽佻浮薄さ加減ときたら、いったい何と浅ましいことだろう。
「本物」「一流」という言葉が、もはやその真意を失っているのが現代の特徴になりつつある。

お濃茶を点て、続いてお薄を点てた。

「まあ、きれいに点ったこと
ご覧なさい、この細やかな泡を」

そう言って、先輩に見えるよう茶碗を差し出された先生。
一口含むと
「ああ、美味しい」
心から仰っているのがわかり嬉しくて深々とお辞儀をした。
お稽古の後は先生がお手ずから作ってくださったお汁粉をご馳走になった。
もう右手指の感覚が失われていらして何をするにもご不自由だというのに
最後だからともてなしてくださる。
「先生のお汁粉が美味しくて忘れられない」
などと、先週、言ってしまったからだろうか。
先生のお手を煩わせないよう汁椀や小皿など何もかもきれいに片付けて
落ち着いたところであらためてご挨拶をする。

今年一年ありがとうございました
来年もまたよろしくお願いいたします。
「来年、お稽古できるかしらね」
先生の言葉に思わず息を呑む。
「大丈夫ですよ、私たちがいますから」
そう返してくださった先輩の言葉に救われるような思いで
「大宗匠だって、まだまだお元気ですから」
と、後を引き継いだ。



名残を惜しみながら帰り支度をしに水屋へ戻ると、まるで眠りについたような静けさがひっそりと漂っている。
つい先ほどまで、私たちのお稽古をまるで母親が心配するような表情で
見守ってくれていたのに。
しばらくすると先生がやってきて
「これは本来なら、お年始にお渡しするものだけど、今もう、お渡しいたしますね」
と、包みをくださった。
いつもお稽古初めにお年賀をくださる。

「あなたはご趣味がよくて、良いものをお使いだから、お気に召さないかもしれないけれど」

でも私は、先生がお選びくださったものが何よりも嬉しい。
先生が良いと思ったものが。
帰宅して開けてみると古帛紗だった。
しかも、西陣の紹巴!
淡く明るい配色の妙。ああ、これをいつ使おう。
もったいなくて、しばらくはとても使えそうにない。

いつだったか私が締めていた紹巴の帯をお褒めくださったことがあった。
それは、着物の先生から
「これは滅多にないものよ」
と勧められたものだった。
着物の先生の審美眼。
これもまた何十年かけて培われた「物を見る目」に他ならない。
近道などない道。
淡々と歩くことによってのみ叶う道。
遠く思われても、それが一番近い道。
新年の初稽古まで2週間。せめて三日に一度は自主稽古をしよう。



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