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23-5 梅すだれ 肥後の国

 お菊は立ち上がると廊下へ出た。この廊下は中庭をぐるりと囲んだ長い廊下だ。左手に庭を見ながら足早に歩き、角を左に曲がるとすぐに右手の部屋の前で止まった。
「お義母かあさま、よろしいですか」
 庭の正面に位置する一番日当たりのいいこの奥の間は、豆腐屋の奥様、たきの部屋だ。今は代替わりをして隠居の身。一日この部屋で墨絵を描いて過ごしている。
「お入り」と声が聞こえるやいなや、お菊は障子を開けて中へ入った。崩れるように座り込むと両手を床につき、すがるように滝を見た。そして一気に庄衛門から聞いた味噌屋の嫌がらせについて話した。魚醤屋が前の主人の亡霊を怖がって逃げていったと話した時には、こらえきれずにはらはらと涙をこぼした。
「私は知らんかったと。味噌屋にそげなことをされてたなんて。奥様は一言も言わんかったと」
 突っ伏しておいおい泣くお菊をたきは「忘れなさい。昔のことは忘れなさい」となだめたが、
「味噌屋に殺されたと。旦那様も奥様も坊ちゃんたちもみんなみんな味噌屋に殺されたと!」
とお菊は庄衛門に負けないほどの大声で叫んだ。目の前には魚醤屋の奥様、きりにそっくりの顔がある。お菊の知っている桐よりは白髪としわがあるが、桐が生きていたらこうやって年を取っていただろうと思われる還暦過ぎの滝の顔。その顔から発せられる声は今も桐とそっくりだ。たきと桐は母親同士が姉妹で、年も一つお滝が上なだけ。背丈も同じ。奥様と見間違う滝から「忘れなさい」と言われたお菊は逆上した。
「なんで味噌屋はそげなことをしとったと?あんなにお優しい旦那様と奥様に、なんでそげなことを!」
「『なんで』なんて考えなくていいのです。風がなぜ吹くのかなんて考えないでしょう。風は強く吹くときも優しく頬を撫でて吹くときもあります。なんで風が強いのかなんて考えなくていいのと同じなのですよ」
 悔しそうに下唇を噛むお菊を見て、滝は自分のようだと思った。「忘れなさい」も「『なんで』なんて考えなくていい」も何度も父親から言われたことなのだ。お菊を見ているとその時の自分はこんな顔をしていたのだと思い知らされる。滝は目をつぶり深く息を吐いた。

つづく


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