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霊性の実践(霊性の道)のあり方について② #思索のメモ

“火をもってこたえる神を  神としよう

私達に知的・精神的・霊的な理解をもたらす神を 
精神文化だけではなく  物質・科学文明をも導く神を

神としよう ”  

聖書 列王記上18章のパロディ

霊性の実践(霊性の道)のあり方について①』の続き #思索の備忘・メモ

BGMはバッハの『トッカータとフーガ ニ短調 ドリア調  BWV 538』
演奏はカール・リヒター


霊性の実践、霊性の道はどうあるべきなのか?

この瞑想する人noteでは、「霊性(スピリチュアリティ)」なるものがあるんじゃないかなぁとしてます。
そして霊性というものを、思索中ではありますが、とりあえずは智慧・慈悲としています。

note:霊性と智慧と慈悲。水瓶座の時代(アクエリアン・エイジ)?


霊性といったもの自体は、単刀直入に言うと、これは宗教的な主張なわけです。
しかし宗教というのは、他のnote記事でも述べてきたように、現代文明においては問題を起こしてばかりの処理に困る粗大ゴミのようなものです。

霊性の実践、霊性の道とはどうあるべきなのでしょうか?


現実社会との関係性において成立するという案

霊性と呼んでもいいものがあるのなら、それは人間に備わったものと言えるでしょう。

では霊性の実践、霊性の道はどうあるべきでしょうか?どこにあるのでしょうか?


一つの案としたいのは、この霊性の実践の道というのは現実社会との正しい関係性において はじめて成立すると考えることです。

つまり人間の内の霊性と、この社会の公序、良識、遵法、進歩、創造といったものとの関係性において成立するということです。

この進歩した物質文明を“”として否定するのではなくて、その価値を認め、この物質文明、この現実社会との正しい関係性を模索する上で成立するということです。


・宗教信仰ドグマの問題

宗教には聖典があって教義(ドグマ)があります。

前回のnoteでも述べましたが宗教の問題の根本には、聖典には現実離れしたおかしなことが言われていて、そしてドグマが現実社会と離れたところで成立してしまっているということがあると思います。

そしてその現実離れした教義が、信仰者によって奉じられ、現実社会で適応しようとされるわけです。
宗教の教義は、現実離れしたものだから、信仰者が熱心で純粋であるほど、当たり前ですが社会で問題、軋轢が生じます。


 信仰者にとっては、そのドグマは「神の法、絶対の真理、霊的真理」であるとされ、むしろこの物質的な世界、現実的な社会の方が、社会の公序良識や法律など全てが「劣ったもの、卑しいもの、下位のもの、打ち勝つべきもの、幻のような価値のないもの、間違ったもの、不完全なもの、サタンによるもの、悪」とされます。


 宗教熱心であれば当たり前のように問題が生じるわけですが、信仰者とっては「私たちの信仰は真理である。私たちは神の真の奉仕者である。聖典や預言者に従っている。なぜ私たちが間違っているのか?間違っているのはこの世である。サタンの仕業だ」というわけです。
そして場合によっては、社会に対する敵意をつのらせ、酷いカルト事件を引き起こしたりします。

コンスピカルトも同じでしょう。


宗教はもう滅茶苦茶です。

こうであってはいけないということです。


・信仰ドグマが単独で成立してしまうと、、、

さらに、現実離れしたことを説くドグマが単独で成立してしまうというのは、宗教のタガがハズレやすくて、おかしなことをしでかしやすいという性質に関係していると言えるでしょう。

宗教はなんでもアリの言ったもん勝ち、やったもん勝ちになるのです。

 宗教は自浄作用が働かないというのは、宗教の狂気、暴力、偽善、過酷な仕打ち、阿鼻叫喚に満ちた長い歴史を見れば分かります。

宗教は思い込みが激しく傲慢であり、科学と違って客観的な検証とは無関係なものであり、批判的精神、多様で自由で進歩的な発想を嫌悪するものであり、さらに物質的な世界、現実社会を軽視するものです。


 「人の法より神の法」という発想です。
「神の法、霊的真理によって人の世は治められなければならない。なぜ堕落した世俗の言うことを聞かなければならないのか?」ということです。

伝統、新興、カルト問わず、国家によって公式に国教と定められているかどうか問わず、宗教宗派に関係なく、クリスチャンやムス○ム、ヒンドゥー、、、、関係なく、実際に彼らの口からこういった内容のことを聞いたことはありませんか?


「神の法、霊的真理」―― といっても自分たちの信じる現実離れしたドグマなだけなのですが ―― を尊重し「人の法」を軽視する人たちに、「法律を自分たちの都合のいいように利用しないで下さい。社会良識を尊重してください。常識を考えて下さい。あなた方とは違った他者の意見も聞いて下さい。宗教ばかりやんないで下さい」なんていう訴えが響くでしょうか?


なので、、、

「我々の宗教は神の真理である。我々の信仰を迫害することはサタンに属するものであり、悪業を積むことになり、地獄に堕ちることになる。

 肉体的な苦しみよりも魂の苦しみの方が深刻である。
 彼らがさらなる悪業を犯し地獄で苦しむことになる前に、肉体的な死を与えることは慈悲であり、菩薩行であり、救済である」

 、、、というカルト論理すら生じるのは不思議ではないです。
この現実社会、人の世とは無関係なところで、宗教信仰ドグマが成立し完結してしまっているからです。


・「霊性の道」はそれ自体では成立しない ―― ドグマの否定

「霊性の実践の道というのは現実社会との正しい関係性において成立する」という案は、つまり霊性の実践の道であったとしても、教義(ドグマ)、信仰、それ単独の上には成立させないという考えです。


 この瞑想する人noteでは、霊性というのを今のところは「智慧・慈悲」としています。

文殊菩薩
この瞑想する人noteの「本尊」。霊性(智慧・慈悲)、霊性の道の象徴

「霊性(智慧・慈悲)」というのをいわば “本尊” “霊的な理想” として、そしてその実践、霊性の道、ラムリムについては、この物質的な世界、現実社会を卑しいものとするのではなくて、むしろ価値を認め、それとの正しい関係性の上にはじめて成立するというのを模索していくのはどうでしょうか?


 まぁ、要は自分の置かれた状況、TPOを考えましょうと言っているだけのことだし、宗教信者であるにもかかわらず良識がある人たち、現実的な改革派の人たちがさんざん言ってきたことで、新しいアイデアであるわけでもないですが。


“荒野に 内なる霊性の道を備え
砂漠に 大なるもののために 大路をまっすぐにせよ。”

聖書 イザヤ書40章3節のパロディ