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過不足なく、今の自分を言葉で表現する

眠い。最近寝るのが12時1時になる。時間があっというまに流れる。
書くことを自分の毎日にとりいれ、やりたいことをやる!を優先してきて17日目。気持ちが動いて動いて、忙しい。こころをなくすと書いて忙しい、というより、こころがあふれすぎて忙しい。


出産・いのちをテーマに語り合う場、分かち合う場であるバースカフェに行った。わたしの自我は、まだ娘の出産と、そのあとの度重なる手術と闘病生活、いのちと真っ向からむきあった日々の体験の出口を求めて、そういう場に行きたがる。口に出せなかった、誰にも話せなかった、ありとあらゆる気持ちが渦巻く。最近では、だいぶ平たくなってきたものの、やはりまだ傷をわかちあいたい。

その中で、病気やありとあらゆる困難を「ギフト」ととらえたなら、あなたのこの人生での使命って何かな?っていう問いがあった。

そもそもわたしは、使命という言葉は嫌いだ。誰にでもあると思うけれど、みんなが手の届かない壮大な美しいかけ離れたものにしてしまっているような気がする。ちっぽけな役に立たない使命もあるだろうし、世の中のみんなを恐怖におとしめるような役割を担ってきた人もいるだろう。そこで美化されると、重すぎて遠すぎる。わたしは、遊びながら、ぐらいの軽さが好みだ。そして、一番力を発揮できるように思う。

話がそれたけれど、あなたのミッションがあるなら?という言葉をきいて、どう思ったか、をみんなでシェアした。

わたしは、いつも、過不足なく今の自分の正直な思いをそのまま出す。ということが大の苦手だ。ずっとずっと、あとで言いたいことが湧いてきて、こう言えばよかった悲しさや、本当のわたしを理解してもらえなかったむなしさにつきまとわれてきた。今までの人生の大半がそうだったので、自信をもって、ありのままを表現できる人にいつもいつも憧れてきた。
わたしの最大の生きずらさポイントのひとつだとも思う。

それさえも、ギフトだとしたら。選んできたとしたら。

***
娘が保育園から帰りたがらなかった。
遊びたくて仕方なく、イヤイヤと帰りたがらないのはいつものことなのだが、先生とバイバイして園庭に出てからさらに別の玄関から遊戯室に入ってひたすら廊下を走りたがり、娘の気持ちはわかるが、わたしはもう疲弊しきっていた。そんなときは、気持ちがぎゅーっと萎縮して「恥ずかしい」「情けない」でいっぱいになる。他人の目を意識した瞬間に、わたしはこの子一人でさえ手を焼いて(何人も兄弟もいる人もいるのに)、子どもに振り回されている母親として見られているんだろうなぁと。一向に娘の気分を変えられず、ますます頑なにエスカレートするので、見かねて先生が抱っこして車まで付き添ってくれた。

みんなそれぞれミッションがあるなら?という問いかけに、
娘のそれは、果たしてなんだろう?と思った。
もしかすると、わたしの正直なありのまんまの気持ちを表現させることではないのか、とハッとした。わたしが、ずっと、ずーっと難しくてぶち当たってきたこと。
娘の抱えてきた大きな大きな病気というギフト。
そこで感じたことを、わたしはコトバと絵で、表現せざるおえず、突き動かされるように今それをしている。
そして、それを感じたときに、情けない恥ずかしい母親になってみよう、そこを繕わずわたしのまんまで表現して人とつながろう、と思い立った。

連絡帳に書いてもよかったが、わたしが苦手と思い込んできた言葉で伝えようと思い、先生に、昨日の情けない恥ずかしかった気持ちを正直に話した。
先生という立場の人が苦手なのだが、(すぐ期待されているように感じて、そういうふうにふるまってしまう自分が嫌)またひとつ、荷が下りた気がする。
過不足なく、今の自分を言葉で表現する。
そのことの満足感。今まで体験したことのない、満足感。
驚くべきことに、わたしをとりまく世界は、またひとつ柔らかになった。

(17日目/1000)

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