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「読み聞かせ」の不自由さ

子どもと絵本を読むのはおもしろい。

放っておくと、用意されたストーリーをなぞらない。ページの端におまけのように描いてある動物が何を考えているか、この人は家で何をしているか、この屋根瓦の感触はどんなか、この動物たちの中でフクロウが一番偉いのではないか、などと本筋度外視で好きな方へ興味を持った方へとどんどん想像を拡散させる。

それについていくのがたまらなくおもしろい。

親はどうしても「この絵本からこういう事柄を学んでほしい」「こういう感情を持ってほしい」などと願う。ストーリー通りになぞって読み聞かせているときに、途中で子どもが破天荒なことを言い出す。そこで本筋に戻そうとするとき、自分の「いい絵本を自分が読み聞かせたい」という意識が子どもの自由な想像を阻害していることに気づくのだ。

子どもが同じ絵本を何度も読みたいと言うことがある。谷川俊太郎の『もこ もこもこ』や、ダーロフ・イプカーの『よるのねこ』や、五味太郎の『言葉図鑑』や、西村繁男の『おふろやさん』や、きたやまようこの『あかたろうの1・2・3の3・4・5』や、レイモンド・ブリッグズの『さむがりやのサンタ』など何度読んだかわからない。

自分が子どもだった頃を思い出せばわかる。同じ絵本を読みたいと思うのは、「あの時この絵本を読んで広げた想像が心地よかったから再度浸りたい」でもあるし、「別の妄想が自分から生まれるかもしれない」という期待でもある。少なくとも、「親がこの本から学んでほしいと思っていることをなぞりたい」ではないのだ。子どもが本と出会う場をつくれたら、親の役目はほとんど終わっている。子どもが親に求めているのは、教え諭してくれることではなくいっしょになって楽しんでくれることだと思う。

子どもと一緒に絵本を読むときに親は、「創作物を自由に楽しんでいい」という生涯人生を楽しくさせる根本的な姿勢を子どもが身につける現場に立ち会っている。

そして、自分の子どもが、自分が考えもしなかった想像を目の前で繰り広げるという絵本のような光景を、特等席で鑑賞するチケットを得ている。

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