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藤田嗣治に魅せられて。

僕は海外で活躍されている日本人に興味があります。中田英寿さん、長谷部誠さん、坂本龍一さん、村上春樹さん等など。

その先駆けの一人は画家の藤田嗣治さんではないでしょうか?

藤田嗣治さんは1886年(明治19年)に東京にて、お父さんは陸軍軍医総監、お祖父さんは藩士、お兄さんは上智大学教授というもの凄い名家に生まれました。お坊ちゃんですね。

この時代の人が絵画の勉強の為にパリに留学するなんて、普通の家庭では到底無理な事。名家出身故に実現出来た事ですね。

僕は、この藤田嗣治さんという人は、ある意味とても自己プロデュースに長けている人なんだなぁという印象を持っています。

画家としての実力があるのは勿論なのですが、唯一無二の自分のスタイルが無ければ認めて貰えない西洋文化の中で、日本画の技法を取り入れる等日本人としての希少性を自らのアピールポイントとして全面に押し出す事でライバル画家達との差別化に成功しています。

また作品のクオリティだけでは話題性に乏しく、人脈形成にも力を注いでいます。当時のパリはエコール・ド・パリの時代。文化人や富裕層の人々の集う社交界は毎晩の様に華やかな宴が催されており、藤田さんは目立つ仮装をして積極的にそういった場に出向き、戯けてみせて、人気者となっていきました。僕はこれは自らの知名度UPの為の確信的行為と考えます。

まるで現代のミュージシャンや俳優、モデル志望の人が足繁く話題のクラブに通うようなものです。

その結果、藤田嗣治という名はフランスで広がり、絵画は高値で取引され、大成功を収めました。

しかしこの藤田嗣治という人は、最後まで母国とは折り合いが悪く、日本画壇は全盛期ですらあまり好意的な評価を与えていません。なのに戦時下では国威発揚の為に戦争画を描かせて協力させています。ところが終戦後には戦争協力者として戦争責任を問われる始末。

とうとう藤田嗣治さんは日本を去りフランスに戻ってしまいます。そして2度と帰国しませんでしたし、フランス国籍を取得し日本国籍を抹消してしまいます。

にも関わらず藤田嗣治さんは晩年にこんな言葉を残しています。

「私が日本を捨てたのではない。日本が私を捨てたのだ」と。

藤田嗣治さんの暮らした家やアトリエは現在も保存されております。そこには日本を思わせる品々で溢れていますし、浪曲などの日本音楽のレコードもあるそうです。きっと本当は日本に帰りたかったんだと思います。

藤田嗣治さんという画家は、ここ日本では今でも知名度がやや低いというか、その生涯もあまり知られていない様に思います。昨今は映画化される等徐々に再評価の機運も高まっている気もしますが、もっともっと若い人に、かつてこんな男が日本にいたんだよ!って知って欲しい。その生涯を自らの人生の糧として欲しい思いでいっぱいです。差し出がましい様ですが。

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