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健康を犠牲にして働く人の思考回路

健康を犠牲にして働き、何が得られるか?
結論、「何も得られない、むしろ失う」
これが筆者の考えです。

人生の質を向上しようと考える時に真っ先に出てくる問題は健康か、お金か、人間関係です。
その中でも健康問題が群を抜いて、大切だということは直感的に理解できる方が大半だと思います。
なぜ、彼らは健康を犠牲にしてまで働きたいのか、この問題について、筆者なりの考察を述べていきたいと思います。
健康を犠牲にして働いている方の大半は、自分が犠牲になっていることに無自覚です。
大切な方がもし、このような状態に陥ったときに何を考えているのか?

その人の考えが分かれば、どうやって説得するか、考え方を変えさせることができるかの入り口がわかるはずです。
ぜひ最後まで読んでいただけますと幸いです。

結論だけ先に申し上げますと、次の3つが健康を犠牲にする方の思考パターンです。

1️⃣承認欲求を仕事でしか満たせない
2️⃣いつか報われると思い込んでいる
3️⃣プライベートの人間関係に自信がない

承認欲求を仕事でしか満たせない

現代社会のキーワード、「承認欲求」です。
承認欲求に踊らされているのは、SNS上で躍起になって写真を上げまくっている人だけではありません。
ワーカホリックぶって身を粉にしているサラリーマンもこの承認欲求の沼にハマっています。
経営者目線で仕事をしろ、1万時間の法則、何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない等々、世の中の啓発系ワードは曲解すれば、労働者に不利なものも多くあります。
確かに、仕事で結果を出さなれければ仕事にやりがいを感じることはないでしょう。
時間をかけなければ、何か習得できないことも一つの真理だということに異論はありません。
しかし、それは健康を犠牲にしてまでやることなのでしょうか。
極端な思考は完全に思考停止をしています。
大量に時間を投下したら、確かに結果は出る確率は上がるでしょう。
結果が出ると、やはり承認欲求は満たされます。
そして、頑張って良かったというその時の感情は誠に甘美なものです。

労働に全てを注ぐ時間は、後になって振り返ると有意義だったと思う返す方も多くいらっしゃることと思います。
その時に生じた承認欲求が満たされた感覚をもう一度味わいたいと考えることは実は人間にとって自然なことなのかもしれません。
しかし、承認欲求を満たすことは仕事以外でもできるはずです。
毎日、規則正しく生活して、自分に誇りをもてる状態にしておくことでも「あー自分、よく頑張っているよな」と自分で自分を承認できることはできます。
仕事だけで承認欲求を満たそうとする方は承認の矢印が他人にしか向かっていない状態なのです。
自分で自分を承認しても良いということは学校では教わりません。
地域や環境によっては「イタい奴」とレッテルを貼られてしまうこともあります。
しかし、他人への承認だけを求めていると「やればやった分だけ」という思考に陥りがちです。
他人は自分にとって都合がよければそれで良いと考える人が大半です。
ブラック企業なんかはまさにその典型です。
自分の健康を守れるのは自分だけと心に刻み込んで自分のことを温かく承認していきましょう。

いつか報われると思い込んでいる

「努力はいつか報われる」
これはいわゆる正しい方向性で正しく積み重ねる努力が報われるという意味です。
何も考えや戦略なしに報われることなんて、世の中、そんなに多くありません。
そもそも報われるって何なんでしょうか?

昇進して、年収が高くなること?
自分が勝者であること?
高級な住宅と車を所有していること?

確かに、素晴らしいことだと思います。
努力によって、自分の欲しいものを勝ち取ることは資本主義のコンセプトそのものなので、否定できるものではありません。
しかし、報われるというのはまた違った趣があるものではないでしょうか?
それはあくまでも「所有をしている」だけに過ぎません。
たまたま仮想通貨が上がって、億り人になったとして、それが「努力が報われている」状態と言えるのでしょうか。

自分が物質的に満たされるのではなく、人の役に立つことが報われている状態ではないかと筆者は考えています。
自分の仕事によって、他者に価値を与えることができている状態。
これが「報われている」状態であると仮定するならば、健康を犠牲にすることは愚の骨頂といえます。
人間は自分が満たされていないと他人に何かを与えるということはできないからです。
報われるとは「報いる」と同じ書き方をします。

健康を犠牲にして努力をすることはただのオーバーワークです。
オーバーワークは思考停止している状態といっても過言ではありません。
一部の天才起業家等は例外かもしれませんが、私たちの大半は凡人です。
大量にいるから凡人なのです。
凡人が思考停止で他人報いることができるほど、仕事や人生は甘くありません。
どうすれば、凡人の自分が価値ある仕事ができるか、人に喜んでもらえるか、健康かつ凛とした脳を使って知恵を絞っていきましょう。
それが正しい努力であると筆者は考えます。

プライベートの人間関係に自信がない

休日も仕事をすることが熱心であるという先入観は根強いものです。
その先入観ゆえに、プライベートの空虚さを仕事で満たそうとする人もいます。

どうせ1人だし、暇だから仕事でもしようかな。
仕事を頑張っている自分でないと、家族に受け入れてもらえないのではないか。
家族が幸せだったら、自分は犠牲になっても構わない。
子供にはできる限り良い環境で育ってもらいたい。

こういった考え方をする(特に男性)は結構多いです。
ブラック企業にお勤めされている既婚者の方の大半は自分を犠牲にして、家族を幸せにするという思考の方ではないかと筆者は考えています。
その裏側には、強いコンプレックスがあるのではないかと思います。

ただでさえ、家を空けがちだから、子供に相手してもらえないかもしれない。
なんか妻(もしくは彼女)がずっと機嫌が悪いから気まずい。
新しい人間関係を築くよりも、慣れた仕事をしていた方が、気持ちが楽。

プライベートでの人間関係が充実していないと、自分の価値を感じることができるのはいわゆる市場価値のみになってしまいます。
市場価値を上げるためには仕事をもっと頑張らなければならない。
そのような考えがあって、休息も取らずにずっと仕事に没頭してしまうのでないかと考えられます。

誠心誠意をもって、人間関係を築くことは気苦労が絶えません。
それは家族であっても同様です。
家族であるからこそ、誠意が必要だと思います。
その気苦労を本能的に避けて、「仕事に逃げている」状態になることで自分を正当化する。
自分の健康を犠牲にするほどの努力だった、それほど家族のために仕事を頑張ったと免罪符を得て、気まずい(と思い込んでいる)関係の家族にも死に際で何とか良く思ってもらいたい。
そのような思惑があり、健康を犠牲に仕事をする人は考えているのではないかと筆者は推察しています。
そんなことを考えるくらいなら、今日から、家族に対して誠意をもって尽くすことを始めて生きている間に愛してもらった方がよほど幸福だと思うのですが、いかがでしょうか。

まとめ

仕事を頑張ることはとても尊いことです。
これに関しては筆者も大いに賛成です。
筆者自身も仕事を頑張ることは好きですし、誰かの役に立っている感覚は生きる活力になっています。
しかし、それを感じることができるのは筆者自身が今、健康状態が良好だからです。
かつて、ブラック企業に勤めていたときは仕事の喜びなんて感じることもありませんでした。
給料日と賞与が出た時だけ、一瞬、やる気が出る、そんな日々を送っていました。
毎日深夜0時を過ぎるまで働く中で、確かに得たスキルもあります。
筆者自身、それほど器用なタイプでもなく、覚えが良くないので、時間をかけなければならなかったことも事実としてあります。
ただ、そこから健康状態を立て直すのに、6年ほど年月を費やしました。
メンタルが安定してきたと実感が持てるようになったのも、ここ最近のことです。
だからこそ、自分があの時、何を考えていたのかをまとめてみることは、今、同じ境遇にいらっしゃる方、知人が巻き込まれている方にお伝えする価値があるのではないかと思い、この記事を書いてみました。
確かに長時間労働によって、職歴やスキルを得た部分も筆者自身、あります。
しかし、それは長時間労働によって、健康を犠牲にしてまで得るべきものだったのか。
もっとまともな方法があったと強く思っています。

だからこそ、冒頭にもお伝えしました、「何も得られない、むしろ失う」

これはあの時の自分に言って聞かせてやりたいと心底思っています。
読んでいただいた方の一助になれば、本当に幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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