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本紹介『本を読めなくなった人のための読書論』若松英輔

はじめに

 若松英輔さんの文章を読むと、本を読むかあという気にさせられる。一方で、本を読まなくてもいいかあ、という気にもなる。一度読書会に参加した時、その緩やかさというか穏やかさに不思議な感じがした。少しスピードを落とそうかな、と思えたのは若松さんの本に出会ってからのような気がする。


気になった言葉たち

「少なくとも読むことにおいて、速くできるようになることは、ほとんど意味がありません。
むしろ、時間をかけて「たしか」にできるようになることだけが大切で、速くできてもよいことはほとんどありません。
言葉は、多く読むことよりも、深く感じることの方に圧倒的な意味があるからです。

 読むことについての言葉。果たして授業では、どれだけ味わうことができているのだろう、短時間で色々教えることに注力しすぎていないか。深く読むこと、たしかにできるようになることが出来ているかな。灘高校の伝説・橋本武先生が銀の匙でやっていたのは、この深く読む、たしかに読むということだったんだろうな。

また、書くことについてもこんなことが。

書くという経験でもっとも重要なのは、「うまい」文章を書き上げることよりも、自分という存在を感じ直してみることなのです。むしろ、「うまく」書こうとしたとき、自分の心をよく感じられないことも分かってきました。
「うまく」書こうとする気持ちが、心の深みへと通じる扉を見えなくしてしまうのです。

 本当に書きたいことがないと書けないっていうのは、国語の世界ではよく言われることだけれど、外の世界でも言われてることなんだなあと実感。そうだよね。書くことは、自分という存在を感じ直すためにある、自分を作る営みなのだ。
これは、私の好きな三藤先生も次のように言っています。

「認識」とは「表現」と不可分のものである,ということです。私たちは何かを「認識」した瞬間すでに「行動(表現)」を起こしており,また「行動(表現)」を起こしながら,「認識」を一層深めていると考えられます。つまり広義の「認識」とは狭義の「認識(理解とほぼ同義)」と「表現」の両方を含みもつと考えられます。
 中でも重要なのは,「表現の中で認識が深まる」ということです。( p.27)
三藤恭弘『書く力がぐんぐん身につく「物語の創作/お話づくり」のカリキュラム30ーーファンタジーの公式ーー』

 私たち教員は、何を教えるかや評価に注目しすぎるきらいがあるけれど、生徒の中に何が起こっているか、これは注視しなくていけないことなんだよね。生徒の中で変化が起きるその瞬間を国語科でたくさん作っていけたらいいなあ。

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