見出し画像

私の大学受験 Ⅰ

受験の季節になった。
私の通う大学でも、受験に備えて学校は立ち入り禁止になり、先生方も忙しく動き始めた。
SNS上でも、緊張する受験生の声、既に受験を終えて結果待ちをしている高校生の声が散見される。
そんな空気を感じ、私自身も受験生だった頃のことを思い出した。なかなか波乱万丈だったが、よい機会なので少し文字を書いてみようと思う。


私が受験生だったのは、2018年のことだった。

地方の'自称'進学校の特進コースに通っていた私は、否応なく難関大学を受験校に定め、勉学に励んでいた。中学から歴史が好きで、古代ローマ史に特別な興味を抱いていた私は、大学も史学科を受験しようと決めていたのだ。第一志望は早稲田大学。私大の最高峰だ。

理系教科は、高校に入学して早々に諦めた。化学も生物も数学も、全てがどうにも苦手だった。学校のテストはできるが模試などでは点数が取れないという、基礎力が身についていない典型的なタイプだった。中高通じて学年20位以下に落ちたことがなく、比較的頭のいい部類に入る私だったが、それらの公式は少しも頭に入ってこなかった。

模試を受ける際は、受験校を選択する。そうすると、模試の点数を換算して各大学の「合格判定」が出る。第一志望から第三志望までは難関大学を選択していたため、判定は最後まで最低ラインの’E’判定だった。これまで大した挑戦も経験もしてこなかったので、「まあなんとかなるでしょ」くらいにしか思っていなかった。

最初の壁は、公募推薦を受けるかどうかだった。早稲田を第一志望としていた私にとって、その受験校はレベルを少し下げることになる(どちらも素晴らしい大学で、当時オールE判定の私がレベルを下げるのどうのと言えるような立場になかったのは火を見るより明らかだ)。それがどうにも私のプライドを刺激したのだ。

結局私は、公募推薦を受験することになる。「受験できる資格があって、それを選べるなら選んだ方がいい」という、浪人中の従兄のアドバイスがあったからだ。かくして私は、高校3年生の夏ごろから、推薦入試の対策を始めたのだ。狙うは文学部史学科。大好きな歴史を勉強するために、全力で取り組んだ。

受験をしたのは、確か11月ごろだった気がする。群馬在住の私は、ホテルをとって母と東京に滞在していた。到着した当日は、湯島天満宮に行った。牛を撫で、絵馬を書いた記憶がある。わたしは合格祈願をし、母は国家試験を控えていた姉の合格祈願をした。そのあと私はホテルに戻ったが、母は気を使って外に出ていてくれた。

そして、当日である。正門まで母が送ってくれて、緊張しながらも笑顔を作って、広大な大学に足を踏み入れた。その時は、春からこの大学に通うのだと信じて疑わなかったのだ。

受験科目は、歴史に関する記述問題と面接だった。過去問も手に入れ、面接は先生に頼んで何回も練習した。不安しかなかったが、できることは全てやったはずだった。
教室に入り、その人数に更に緊張が高まった。例年2倍くらいの倍率、つまりは2人に1人が合格するくらいだったが、見ると教室いっぱいに人が入っている。募集人数に対して、明らかに多かった。

着慣れた制服、腕時計、筆記用具。心臓だけはものすごい速さで動いていたが、いつも通り落ち着いてやれば大丈夫、と自分に言い聞かせた。同じく推薦を受験している友人もいたので、姿は見えないが力を送り合っているような、そんな気がした。


合格発表の日は、よく覚えている。12月7日だった。その日はいつも通り学校があったが、発表時間までの授業は集中できるはずもなかった。
次の授業は移動教室。パソコン室を使うほぼ自習のような授業だったので、前の授業が終わるや否や、世界史の教材を持って駆け出した。校内はスマートフォンの使用が禁止されていたが、電源を切ったスマートフォンをポケットに滑り込ませ、緊張しながら速足でお手洗いに行った。
震える手で、電源を入れる。期待半分、緊張半分。発表まで、まだ数分あった。ページにログインし、まだ発表されていないことを確認する。リロードを何回もタップした。

結果は、不合格だった。
何となく、分かってはいた。試験で何を書き、面接で何を言ったのかは覚えている。まともなことは書けなかった。それでも、「いや、私は大丈夫」と信じ切っていた。そんな不幸なことが、自分の身に降りかかるわけがないと思っていた。「レベルを下げることになるから推薦は嫌だ」と言っていたのに、その時には「これで受からなかったら私は終わりだ」と考えるようになっていた。自分には、後がないと分かっていた。一般受験で難関大学を狙えるほどの頭はないと、その時にはもう自覚していた。

早鐘を打つ心臓をそのままに、冷たくなった指先で母に電話を掛けた。「どうした?」という母に、私はただ「だめだった」と言った。その瞬間、涙がどっとあふれてきた。「そっか。分かった」とだけ言った母に頷き、何も言わず電話を切った。これまでにないくらい、泣いた。授業が始まるチャイムが鳴ったが、教室に戻れるような状態ではなかった。授業をすっぽかすようなことは人生で一度もしたことがなかったが、この時ばかりは戻れなかった。

推薦入試を一緒に受けていた友人が同じクラスにいたため、授業監督の先生に事情を説明してくれたのだろう。中学生の頃から仲の良かった先生が、様子を見に来てくれた。合否には触れず、ただ抱きしめてくれた。その優しさが嬉しくて、でも努力できなかった自分が情けなくて、一緒にいてほしかったけれど一緒にいてほしくなかった。ここで合格して、早く楽になりたかったのに。ここからまた勉強して難関大学なんて受かるわけがない。一気に地獄の底に落ちた気分だった。どうすればいい。もうこのまま時が止まればいい。すべてが嫌だった。そのあとが世界史の授業だったのが、皮肉だった。

帰り道、中学生の時から毎日行き帰りをしている子と歩いた。気を使ってくれているのが分かった。受験の話も、勉強の話も何もしなかった。彼女が先に電車を降りてから、独りになって座席に腰かける。なんて情けないんだろう、と思った。窓の外を眺めながら涙を流す高校生を見て、周囲の人はさぞ不思議だっただろう。自分としても泣くつもりはなかったのだが、ぽろぽろと、流れ出てきて止めることはできなかった。

最寄り駅に付き、電車を降りる。定期をかざして、外に目を向ける。いつもの場所に、母の車が止まっているのが見えた。ドアを開けた瞬間、抑えていたものがあふれでたかのように大号泣した。物心ついてから声をあげて泣いたのは、あれが初めてだった気がする。わんわんと泣いた。母は一瞬驚いた顔をしたが、何も言わずに車を出した。悲しくて悲しくて、帰り道ひたすらに泣いた。


――後編に続く。

この記事が参加している募集

#受験体験記

1,404件

よろしければ、サポートしていただけると嬉しいです。いただいたサポートは、海外留学の夢のためにつかわせていただきたいと思っています。