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「フラジャイル 弱さからの出発」読書メモ14

以下、第6章「フラジャイルな反撃」第1節「感じやすい問題」と第2節「ネットワーカーの役割」からの抜粋と、そこから感じたことや考えたことである。

まずは第1節「感じやすい問題」より。

持つ者、持たざる者、支配者、被支配者、強者、弱者、できる者、できない者、・・・・・・・。この二項対立を超え、突き抜ける論理は、この世の中にはないのだろうか。李良枝「木蓮によせて」(p.379)

これは今節の巻頭タイトルページに書かれた文章である。突き抜ける論理は「対等な関係性」ということになるのだが、単純な「みんな仲良くしましょうね」ではどうも面白くないし、かえって存在の詳細を無視した雑な論理のようにすら感じられる。どいつもこいつも同じようなもんだ、というような乱暴な論理ではなく、個性を詳細に感じ取った上で違いも共通性もリスペクトしあう関係性を築きたいものである。「対等な関係性」とか「生かしあう関係性」とか「違いを認め合う関係性」とか、結構よく見聞きするような時代になっているけれど、まだまだ人類は模索中だ。

「人がひた隠しにしようとしているものにしか、深さと真実はない」(p.384)

そこに人間の深淵なる個性があるんだろうなあと思う。非常に恥ずかしい部分であるとか、コンプレックスとして抱えている部分とか、それを隠すよりは、しっかりと、それはそれとしてみつめて、どうにかして自分の中で昇華するとか、社会の中で生かしていけるようなことにできれば、人間は生き生きと豊かさと深さをもって充実した生き方ができるのかもしれない。

これは片倉信夫『僕と自閉症』に紹介されている話である。著者は精神発達障害者指導教育協会に属する所長の一人で、ひたすら「受容する」ということ、この一点だけで仕事をしつづけている。(p.385)
この本には、一言もしゃべらないが粘土で神社をつくるのが好きな少年、両手をけっしてポケットから出さない少年、人前でズボンとパンツをすぐ下ろしてしまう青年、嫌いな服をパッと脱いで水につけてしまう少女、ハナクソを食べてしまうニ十歳をこえた青年、放っておくと吐くまで食べ、落ち込むと今度は眠りつづける大男のニ十歳の青年の話など、たくさんのヴァネラブルな動向が鮮明に描かれている。治療の理屈などはいっさい説明がないのに、読む者には一種の浄化がおこる。著者はAにいてBを治療しようとしているのではなく、AとBとの関係の只中に入ろうとしているだけであるからだった。(p.385)

以上、自閉症の人とそれをとりまく人との関係性について書かれた文章である。治療者とか介助者と書かずに、あえて、「それをとりまく人」と表現した。障害者と関わる、コミュニケーションするということは、日ごろの常識的な観念であるとか通念であるとかいった、とらわれている一般論を外し、まっさらな白紙から物事を考え、知恵を生み出すきっかけとなるように思った。

現代人の病気は、一九六〇年代後半にアメリカの社会学者たちが指摘したことだが「よそよそしさ」というものである。(p.393)

「よそよそしさ」というものに、私は人一倍敏感なほうだと思う。土着的に生きたことがなく、転校生として、部外者として、出来上がっている関係性の中に外から入るという経験ばかりしてきているから、よそよそしい人間関係の経験はわりと多いかもしれない。よそよそしさの裏側には、ベッタリとした癒着的な内輪っぽい人間関係がだいたい存在している。「よそよそしさ」という現象は、「ウチとソト」という意識がハッキリあるからこそ生じる現象なのだと思う。

文学キャバレーや文芸カフェの歴史も、コニーアイランドにはじまる遊園地の歴史も、一八五〇年代にはじまった万国博や百貨店の歴史も、つまるところは大人たちがトトロに会いたくて仕掛けた神話装置だったのである。(p.394)

ここで示すトトロとは何を言っているのか、わかりづらいと思う。気になる方は本を是非読んで頂きたい。詳細に説明するのは難しいが、「第三者」とか、昔の人たちが「神」ととらえていたもの、というようなニュアンスのことを、トトロと言っていると思う。神は死んだなどというフレーズがあるけれど、現代社会にも、神という言葉は使わないけれども神的な何か、を降ろす様々な仕掛けが、実はあるんだという話だ。そんな文章を読んだ後なら、神秘性が欠けているように感じられる現代社会にだって、その片鱗をみつけることができるだろうか。

われわれは「感じやすい問題」をとりもどす必要がある。(p.395)

たまに先住民族のドキュメンタリーのようなものをみると、何か神々しい感じが伝わってくる。「感じやすさ」を最大限に大切にして生きているとそうなるのかもしれない。都市を生きる現代社会人は、神々しさに欠け、死んだ目をして生きている人が多い。そこのところの差異の鍵を握っているのが、「感じやすい問題」なのではないだろうか。

フランス語では、情念や感情を意味するパション(passion)は、じつは被害をうけて苦しむという意味のパティール(patir)から派生した。(p.395)
仏教では菩薩(菩提薩埵)は悟った者ではなく、最も感じやすく、最も傷つきやすい者をいう。わざわざ如来にならないようにしている者である。(p.395)

東西どちらにせよ、傷つきやすさ、感じやすさは、単にネガティブなものとしてではなく、むしろ大切にされてきたということである。最近、HSP(Highly Sensitive Person=とても敏感な人)などという言葉が流行り始めている。つまり現代社会は鈍感であることがついに市民権を得てしまったのだ。鈍感な人が健常者であるとして、敏感な人は障害者として扱われる時代になってしまったのである。なんともはや。

その菩薩の中でも、とりわけ観音菩薩は男でもなく女でもないジェンダーの本来性そのものだった。(p.396)

これは、個人的な壮大な仮説だが、男とか女とかっていう性別というものは人間の壮大な本気度の高い演劇遊びではないか、と私は思っている。本来性というものを感じ取ろうとすれば、人間は誰しも、男とか女とか超越するものなんじゃないだろうか、と私は思っている。

次に第2節「ネットワーカーの役割」にうつる。

「近さ」と「弱さ」は似ているらしい(p.398)
デカルトとニュートンのちがいは、世界を近接作用としてとらえるか、遠隔作用としてとらえるかというちがいにある。(p.398)

高校時代、「物理」の授業をとらなかったので、詳細はよくわからず、感覚的にしかとえらえることはできないが、何か重要なことが書かれているように思ったので抜粋した。

むしろ「近さ」とは近づきすぎないことを示唆しているとおもわれる。(p.399)
「近くになること」と「同じになること」はまったくちがうことなのだ。(p.399)
合同を求めず、あくまで相似にとどまるべきなのだ。(p.399)

繊細であること、感じやすいこと、それは、違いを違いのままにとらえられる能力のことなのかもしれない。似ているけど一緒くたにしない、違いがあることをしっかり認識する。けれど近さという距離感も同時に認識できる。そのような繊細さ、感じやすさの話をしているのかなと思う。

われわれはどうも内部と外部を分けすぎるきらいがある。(p.402)

何かを白黒つけたい、ハッキリさせたい、話を簡単にしたい、そういう衝動はちょっと前まで私にもあった。しかしこの本と出会い、曖昧さの大切さに目覚め始めている。鈍感な人が健常者と呼ばれるこの現代社会の中で、私はずっと細かいこと、繊細過ぎることにコンプレックスがあったが、曖昧なニュアンスをとらえられることは、ひとつの能力なのだと前向きにとらえられるようになった。ウチとソトを区別と言うよりもはや排除する、村八分みたいなことはしない人生をこれまで送ってきた(されたことは何度もある)し、これからも送っていきたい。

私はこうしたあいまいな領域を示す言葉が大好きであるだけでなく、かなりたいせつだとおもっている。(p.404)
これまで、このようなあいまいな言葉はメッセージ力のない、”弱い言葉”と批判されてきた。日本人がこのような言葉をつかいすぎるからといって、やたらに非難の的にもなってきた。あわててアメリカふうのディベートの練習をしたビジネスマンも多かった。しかし、これらは”弱い言葉”であるがゆえに、それ以外のどの言葉でもさししめせない領域や動向をささえていたのでもあった。私は断固としてあいまい言葉を擁護する。(p.405)
そして、私が考えるネットワーカーというものは、じつはこのあいまいな領域やあいまいな動向に敏感な人たちのこと、いいかえれば、「近さ」に勇気をはらった人々のことなのである。私は遠くへ旅する者よりも、近くに冒険する者にずっと愛着がある。(p.405)

私も今やこうした考えに共鳴する。大局をとらえることももちろん大切ではあるけれど、雑な人間にはなりたくないという気持ちがある。

ネットワーカーは一途にイヴォケーター(喚起者)でもなければならなかった。(p.409)

他者を生かし、他者の仕事を創出するくらいまでの力を、ネットワーカーはもっているということらしい。そんな人間になれたら素晴らしいな。

しかし、ネットワーカーにはいつかかならず障壁がおとずれる。それはその活動が領域荒らしと受けとられて何度も既存勢力からの邪魔が入ること、もうひとつは前衛に走りがちなためついつい法を犯しかねないということだ。(p.410)

ギリギリを生きる、それはわざとということではなくて、本気で生きると、時に法律を越え、革新するくらいのこともやらなければならないということなのだろう。

自分ができることを人にまかせたり、譲ったりできること、これもネットワーカーのもつべき素養のひとつだ。(p.412)
ネットワーカーはハードルのつくりかたがうまいのである。(p.412)
注文が出せること、これもネットワーカーの条件である。(p.414)
けれども売茶翁のティーサロンはそれらのコーヒーハウスやカフェやキャバレーとはまったくちがっていて、どんと店を構えたものではなかった。店というよりも、店の本来の語源である店(たな・・・棚)に近かった。
妙な言いかたになるけれど、売茶翁はいわば消極的なネットワーカーなのだ。(p.417)
ふらふらとあらわれてそこに屋台のような店を出す。しかし、客たちはそこで屋台ラーメンを食べるようにそそくさと帰ったわけではなかった。(p.417)
一人来て二人来て、しばし時を忘れる仮の宿でもあったのだ。贅沢な茶掛けがあるわけではなかった。きどった肴もあるとはかぎらない。作法とて、あるような、ないような。客たちはひたすら翁の人倫に交わって、異国の茶をたのしめばよかった。(p.418)

ネットワーカーの資質や能力、魅力についての抜粋を列挙した。今思い浮かんだ人はタモリさんだった。笑っていいともという番組は、多くの芸能人のスターを生み出す装置みたいであったように懐古する。白黒はっきり主張することが大事と考えていた時期、私はタモリさんがどうも苦手であったが、タモリさんの資質・能力・魅力は、ここで挙げたネットワーカーのものと近いものがあるのではないだろうか。

自然や社会のネットワークには、強いネットワークと弱いネットワークがある。わかりやすい例でいうなら、太陽系、鉄道網、電子集積回路、企業系列などはかなり強いネットワークだし、不安定な原子の周囲、バス路線、移動通信電話、同窓会などは比較的弱いネットワークである。(p.418)

強いネットワークには、何かを弾き、どこか義務感が漂う。弱いネットワークはかえって魅力的で親近感が湧き、自発的に集っているようなイメージがある・・・が実際どうなんだろう。

本書がこれまでとりあげてきた遊牧民の多くも、弱いネットワークをゆるやかに形成しながら移動してきた一群だった。詳しくはふれなかったが、ジプシー、ボヘミアン、ヒッピーなどもその係累に入る。(p.420)
ところが、こうした弱い連結によるボランタリー・ネットワークの一端をになうある人物が、時宜をえてふらりと市街の中央にあらわれるとき、そこには従来にない柔らかいネットワーク・サロンが新たにできあがることがある。(p.420)
一見すると漠然とはしているが、妙に温かみのある静かな動向だ。(p.420)

ボランタリー・ネットワークという言葉で思い出したのが、学生時代に読んだ金子郁容著の「ネットワーク組織論」である。読んでいて面白かった記憶があり、何が面白く感じさせていたのか、もう一度読みたいと思った。

ネットワーカーは、ちょうどそこにいあわせたかのようにその場にいて、その都度ゆるやかに波紋を広げる創発的な役割をもつ。(p.420)

そんな、ひとをわくわくいきいきさせるさりげない存在に私もなりたい。

存在とは関係の濃度のことである。存在そのものが周囲とかけれて自立しているということはない。存在の輪郭は閉じてはいない。むしろ周囲に溶けようとする。(p.421)

そうなのか。周囲に溶けようとするのか。私はまだどこか、存在を自立的にとらえているところがある。関係の濃度、なんだなあ。全然、存在のこと、わかってないのかもしれないなあ。存在について結構長く考えてきたんだが。1人で考えた時間が長かったゆえ、逆に色々わかっていないのかもしれない。

輪郭のどこか一部を極端に柔らかくしておくか、かなり弱くしておく必要がある。その柔らかくて弱い部分が、まわりまわって五階の風鈴を聞く耳になり、ステレオの音を聞く手になり、自閉症の突破口となり、すなわち売茶翁の店になっていく。(p.421)

風鈴やステレオの話は身体障碍者の話なのだが、詳しく知りたい人は本を読んで頂きたい。弱さは言い換えれば柔らかさなのだな。柔らかさは大事だよな。

素粒子はたった一個で生まれてきたり消えていったりはしないということである。素粒子はつねに対発生と対消滅をくりかえす。これを科学者たちは「素粒子には自己同一性がない」などという。素粒子は自立していない。(p.421)
すなわち存在というものはもともと対発生しているものではなかったかということだ。(p.421-422)

私はいまだに独身で独り暮らしをしているが、存在は関係の濃度だとか、存在は対発生なのだなどと語られるのを読むと、独りの時間の長い生き方というのは人間として、生き物として、存在として、不自然なことなのか!?と思ってしまう。

すなわち情報は自身の内なる関係性の動向を編集されるために生きているということなのだ。(p.424)

情報は、固定的ではなく、常に編集されるために生きるとな。まさに諸行無常だ。

この潜在的分岐性を人々の気質からとりだすのが、本節で縷々のべてきたネットワーカーの役割だったのである。ネットワーカーは人々の中にすでに内包されている分岐性に着目して、人々を次々にぽかぽかした縁側に誘っていくわけなのだ。(p.426)

「潜在的分岐性」とはグレゴリー・ベイトソンという方の言葉だそうだ。本書では縁側の魅力についても語られていた。私も祖母の家にあった縁側が結構好きだった。日本家屋のがらんとした風通しのいい構造は西洋の家の構造より好きである。上の抜粋文とはあまり関係のない話になってしまったが。

このネットワーカーは、なにも人ばかりをさしてはいない。ここではもはやその説明をはぶくけれど、自然界や生命界で「触媒」とよばれたり、また「ホルモン」とか「酵素」とかよばれているものも、正真正銘の情報のネットワーカーなのである。(p.426)

物事を固定的な存在としてとらえる癖が私たち(いや私?)にはあるが、もっともっといい加減で、溶けあうような存在として生きているものはこの世界に沢山ある、というか、ほとんどすべてがそうなのだ、ということが言いたいのかもしれない。認識を改める必要を感じる。固定したがる衝動があっても、実際、固定なんてできない、つながり、編集され続ける宿命に、この世界はあるということなのか。

「情報は編集されたがっている」(p.427)
これが私の思想の核心にあたることで、本節のネットワーカーの役割の結論にもなるのだが、ネットワーキングの本質は編集であり、その編集の本質は「弱さ」を「近さ」に変えるということだったのである。(p.427)

「弱さ」と「近さ」の関係性、というと、どうも頭でっかちで難しく聴こえるが、「柔らかさ」「可変性」「柔軟性」といった言葉をもちだせば、「弱さ」が「近さ」につながっていくイメージは湧く。同じではない近さ。この繊細な感覚、メモしておきたい。

さて、次回で最後の節となる。ボケっと生きていたら、私の中からは絶対に生まれてこない発想や、様々な見分・知識・教養に溢れた本だった。これもひとつの関係性が生まれたということなのかもしれない。アウトプットした自分自身が書いた文章たちもいずれ、また読み返し、この本を総括できたらと思う。いや、総括と呼べるレベルまで理解したとは到底いえないのだが。しかし、すべてを理解することだけが読書の目的ではないと思う。頭の中を自由にし、新たな発想が生まれたならば、それだけでも読書の価値はあると思うのだ。最後の節、楽しんで読みたいと思う。

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