やっぱり、いつ見ても雲は天才である
最近、雲を眺めることがとても気に入っている。
昔は、雲は身近過ぎて、当たり前に存在すとしか思っていなかった。
もともと、朝日や夕日が好きで、スマホで写真に収めることが多かった。快晴の朝日や夕日は、たまには清々しいのだが、鑑賞するにはやっぱり、雲があった方が良い。
絶妙な雲の形と太陽が織りなす何とも言い難い光景には、本当に見入ってしまうし、感慨深くもある。
石川啄木の“雲は天才である”という本がある。
この本は、私の知人の高谷秀司さんから紹介してもらった。
本の中身も面白いが、この雲は天才であるという言葉は衝撃だった。この本の存在を知ったのは、今から2年半前。
感覚的には、それまで、雲に対して思っていたことと近いのだが、流石に天才と言う形容は私には想定外だった。
以来、朝日や夕日への関心よりも雲を眺めることの方が、想いにふける感覚もシャープになったし、何よりも雲が天才的に描き出す絶妙な光景は、いつ見ても飽きることはない。
誰でも分かる事ではあるが、そもそも、その瞬間の世界中の空を切り出しても、同じ光景は一つとない。それだけ、無数の雲の形や種類があるということだ。
今は夏だから、入道雲。爽快なブルースカイに入道雲という眺めは、とても躍動感があり、攻撃的にさえ写る。
また、台風や嵐が近づいてきた時の雲は、本当に不気味でもある。
どんよりとした朝、雲の本の隙間から見える朝日も何とも言い難い。偶然出会うこともあれば、意図をもって、そういう朝日を待っている時も結構ワクワクする。そして、期待通りに、一瞬でも朝日が顔を出すと、スマホに収める。
時間との闘いである。もちろん、待っていても空振りになることも多い。
太陽が顔を出さずとも、天使の橋後に遭遇することもある。
朝焼けや夕焼けも、本当に美しい光景が多い。私の感覚では、朝焼けにしても夕焼けにしても、雲の性質と形状が大きく影響しているように思う。毎回、素敵な朝焼けや夕焼けに遭遇したいが、必ずしもそうではない。では、どんな雲の時に焼けるのかと言われても、私には感覚的にしか分からない。
基本的には、雲は地上から眺めるものであるが、飛行機からは雲が下に見える。絨毯のように思える時もあれば、入道雲がとこまでも高くそびえている時は、飛行機が突入する度、激しい揺れに見舞われることもあり、こんな雲はどうも好きにはなれない
。雲の上からの朝日や夕日に遭遇できると、何とも言えないような気分が味わえる。
最近、私は神戸でいることが多い。特に神戸港界隈で写真をよく撮る。
いつもの港、いつもの海も、雲の存在一つで、全く唯一無二の絶景に変わる。かといって、同じ場所でずっと、雲を眺めている訳ではない。仮に眺めていたとしても、雲は刻々と変化する。
それを写すと言う事はまさに、一瞬の情景の切り出しだ。
最近、気付いてみたら、私のスマホの写真は、雲がとても多くなってきた。特に明確な目的があるわけでもないが、感覚的には、雲を意識する、雲を眺めることは、地球を感じることと近い。
子供の頃に習ったので、雲ができる理屈は知っている。だから、地球で空気と水が循環している訳だ。今、環境問題で世の中、喧しい。
こういう問題が、目の前にある雲にも影響しているのだろうか?それとも、そんなことは全く関係なく循環しているだろうか?はたまた、この雲はどこまで流れていくのだろうか?
もっとも、雲は水蒸気だから、どこかで雨となって地上に降り注ぐのだと思うし、本当に地球というのは不思議なものであり、それは雲が一番象徴しているようにも思えるのである。
こんなことは、現代に生きているから思う事であり、昔の人達は、経験と勘で、雲の様子を見て、先に起こる事や次の日の天気を予想してきたはずだ。こんなことを考えると、人間の感覚と言うのは実に奥深い。
以上