校友会や同窓会の強い大学出身者ほど注意?若者が年長者と話したがらない理由とは
『1人寂しい家に、これから帰るんやな』と、言われて頭にきたことがある。確か、取引先の社長か何かに、未婚であることをイジられた格好だ。
悪意はみられなかったが、借りている家で問題があった時期と重なって不快を感じたものだ。おかげで、一つの相関関係に気づいた。
マウンティングする大人ほど、同窓生と競いつづけている。
自営業への非難や未婚イジリをしかけてくる方は、これまで3〜4年に1度のペースで現れている。計4名の方々に、共通する条件は以下の通りだ。
1.私より同年以上
2.男性
3.既婚者
4.私の母校より入試難易度が高いとされる大学の卒業者
1は、年長者の威張りはどこでもあることで、当人の人格で左右される。もしかしたら、気をつけている部類の私でも、年少者を不快にさせているかもしれない。
2.は私が男性だからであって、他の方々に共通する条件とはいいがたい。
3.は妻と上手く行っていないから、あるいはその妻と私のほうが仲良く喋っていることへの嫉妬もありえるから、まだわかる。自分の意思ではない結婚だったのなら、同情さえできる。
4.が、わからなかった。
むしろ、良い大学をでていることは、心の余裕に繋がるはずだ。
が、ここまでの計4名には当てはまらないようだ。私と仲良くしたがる一方で、つまらない言動をする。こちらが大人しくしていても、わざわざ優位を誇示しようとする。おそらく、悪意のかけらもない。
4.に該当する友人にこの話をしてみた。
『なにか、習慣として続けているからではないか?歳を重ねる事に、自己誇示癖は収まるはずだが・・・』
なるほど、そうか。
友人は『彼は私と同じ○○卒で』と言った話もしなければ、アイツが頑張っているから俺も~な気負いを見せることもない。
いっぽうで計4名は、母校への誇りが大なり小なり強い。私のように、学生を目の前にしているから大学時代の話をするというのではなく、社会人いや四十を過ぎたオッサンばかりの場でも大学の話で盛り上がったりする。
近況報告を競い合う同窓会
仮説を裏付ける実例として思い出したのが、計4名の1人で、私と同い年の人物だ。機会あって、一緒に交渉事に赴くことがあった。
相手先の代表は同い年氏の大学先輩に当たり、話が早そうだ。学閥を大いに使えばいいと、私も納得していた。
が、挨拶直後早々に、『彼、○○出身なんですよ』と切り出す。
そんな話をする必要があるのか?近くにキャンパスがあるなら理解できるが、その県内全てを含めてもサテライトオフィスすらない。
・・・あれ、わざわざ学歴マウンティングをしたかったのか?と一瞬思ったが、私がそうなんですと返した後、すぐに別の話題に代わった。同い年氏に特段の意図は感じられず、何かの習慣?にさえ思えた。
不思議に思っていると、後日になって同い年氏が、いろいろと母校絡みのことを話してくれた。
『ゼミの同窓会では、かならず今何をやっているとか、子どもはどうなったかなどの話題が出て、自分も負けてはならないと思わされる』
・・・ああ、これだ。
定期的に同窓会が開かれては、『オレはこんなに偉くなったぞ、幸せになったぞ』を誇示し合う場がやってくるのだ。
なんとも、面倒な話だ。
私の母校などは、先の記事でも解説したとおり、ほうぼうに卒業生が散ってしまうから、頻度の高い同窓会は成立しづらい。もちろん、学校法人公認の校友会(OB・OG組織)はしっかり活動しているが、私的な会合を聞いたことがない。「あなたも、同じ大学それも同じ学部の出身でしたか!」と後で気づいたのが、この一年で2度もあったぐらいで、むやみに学閥を活用しない。
良く言えば、ブランドを当てにせず、まず個々のポテンシャルで生きる気概を育む学風だ。
ブランドへの誇り
それが、計4名のみなさんの母校は、勝手が違うようだ。
ブランドが欲しくて入学する人も多いだろうし、そのうちいくつかの大学は入学生の7割ぐらいは近県(要は首都圏)の高校出身といい、卒業後も大学との通勤圏内にとどまる。同窓会は続きやすいし、就職はおろか商談、出世の世話まで先輩がしてくれるケースもある。
となれば、親の代から、ブランドに基づいた生き方をされていたりで、代々付属からです!なんて話もよく聞く。
話をしてくれた同い年氏は、高校からの内部進学だったため、母校ブランドへの愛着いや執着がより強かった。
私からすれば、そんな面倒な同窓会に行かなくてもいいと思うが、ブランドの維持に必要なのか、絶えず参加しているらしい。いや、愛着執着以上に、ブランドへの感謝といった感情もあるのだろう。
いずれにせよ、誇りの裏返しは、劣等感だ。
いわゆるコンプレックスであり、同い年氏に限らず、私やあらゆる人にも存在する感情である。
年長者とさらに話したがらなくなった若者たち
メリットがなくなった?
仲が良かったり話が合うなら、年齢の上下は気にならない。
年長者に話しかける理由は、生活のためが大半だ。仕事や学問の教えを乞うたり、資金の援助を申し出たり、様々な局面で助けてくる。
それが、平成末、2020年あたりから怪しくなってきた。
初期的な補助さえあればいいとするなら、年長者と仲良くする必然性が薄れてきた。
仕事の教えはネットを介するなどで、別から仕入れればよく、初期的な作法ぐらいは何とかなる。資金調達は人間関係よりも別の要素(与信とか)が強くなっただけでなく、クラウドファンディングなども活用できる。さらに、コロナ禍でオンライン化が進み、加えてAIの伸長で、属人的な経験知を強いれる需要が大きく減った。
いまや、簡単なPC操作や文章添削程度で先輩面するのは、パワハラ認定されなかったとしても、マウンティングの一種ではあり迷惑行為とされる場合がある。
事前に事細かに指示している作業なら別だが、それぐらいならAIにやらせろ!になりかねない。
年長者マウンティングを未然回避するにしても
となると、賢い?若者ほど、付き合う年長者を選ぶ。
とられる策としては、
1.授業や仕事・部活以外の場に出て行かない
2.挨拶だけはしっかりするが、必要以外に話さない・目も合わさない
3.年少者(部下)全員で、会話を避ける
1.は、職場と家庭の往復しかない中年サラリーマンと似たり寄ったりだ。体験や経験の質が偏ってしまう。そのうち年少者とも付き合いが悪くなるから、同世代感覚しかわからない中高年になるだろう。「俺のいた会社(学校)ではこうだった!」的なマウンティングをやる老人になるかもしれない。それでは、同窓会の強い大学OBにみられがちな方々と大して変わらなくなる。
あるリスクを回避することで、別のリスクを背負うのは必然にしても、ある程度検討してからの行動をお勧めする。
2.は、?な相手にだけとるなら、適切な対策と思われる。最低限の挨拶さえ欠かさなければ、敵対していない意思表示にはなるからだ。距離を置くことと敵視することはイコールではない。
3.は最終手段といえる。
ある職場で、責任者だけがほかの従業員から無視されている状況を聞いた。前段のように、あとで細かい文章添削をしたり、少しでも自分の意思に沿わないことがあると仕事を取り上げるなど、パワハラ状態が続いていた。
3.を続けることで経営層への訴えを固めたらしく、数カ月ほどして責任者は更迭された。
年長者側の対策として~説明責任の重要性
前段の3.に挙げた責任者は、冒頭の計4名とは違って同窓会の強い学校出身ではなかったそうだ。
ではなぜ、そこまで疎まれたのか。
おそらく、合理性のない言動が続いたからと思われる。事後であっても言動の理由を明らかにする、説明責任(Acountability)がなかったからだ。
自分のワガママや虚栄心を満たすだけの言動は、受け手にとってメリットがない場合が多い。
たとえば『あの会社の社長は俺の同窓生だ!』だと、ただの自慢なら聞き飽きる。後でもいいから『自分の専攻と相手先社長の専攻が近かったら、商談の切り出しに使える』などと説明がつけば、納得がいくはずだ。
『その職業だと、節税も簡単でしょ?』的なイジリは、プライベートな会話ならまだしも、仕事の打ち合わせや公的な場なら、ただの職業差別だ。
『節税しやすいお立場に甘えて、お見積もり額を安くしてもらえないでしょうか?』と正直に要望まで伝えるか、『節税のお手伝いをさせてください』と、相手のメリットまで続けたなら話がつながる。勝手に差別されたとの理不尽感もなくなる。
理不尽前提は遠い昔。年を重ねてもアップデートが必要
かつての日本なら、「世の中には理不尽なこともある」ことを、学校でも教えてくれた。先輩後輩の関係や校則の存在・正課の授業に限らず、部活や体育指導など様々な場を活用して行われた。
ところが、理不尽前提の教育は、自動化されない工場労働やルート営業など、悪く言えば鈍感な精神力が試される職業ではプラスになっても、そのつど対策や工夫を考える職務ではマイナスに繋がる。そのまま理不尽に耐えてしまっては、改善や創造など生まれないどころか、安定給料にぶら下がる存在になりかねない。
「若いうちから理不尽に耐えても仕方がない」との考えは、おそらく、ゆとり世代あたりから変わっていったのだろうが、ゆとり教育政策が終わりゆく今も定着している。今年になって、ある環境教育の現場で、小学生が『○○、それは理不尽やろ』と捕まえた虫を家まで持って帰ろうとする同級生をとがめた姿をみて、なおさらそう思った。
人間以外への理不尽もおかしいと、とがめる子どもが出てきた。しかも、それが常識のようにふるまっている。
環境教育が一般化していなかった2000年ぐらいまでは、人間以外への理不尽は、さらにどうでもよかったことを記憶している。
私も皆さんも、近況に対して、引き続きアップデートが必要だ。
Vtuberなどの活躍で、年少者に対して言えるようになったこと
数年前だったか、新社会人の女性から『なぜ、敬語で話すのですか』と聞かれた。
私は「年長者に気持ちよく責任を取らせるためだ」と答えた。
少なくとも今世紀初頭までは挨拶の必要性など、説明する必要がなかった。
彼女が私に話しやすかった面があるとはいえ、昭和生まれにとっては衝撃の質問である。武道を心得ている人なら『敵対者ではないことを、いち早く知らせるため』との答えも出来ただろう。
私は武道家でもなく、彼女も違う。彼女の利益になるであろう回答を考えた結果が、「責任を取らせるため」だった。
そもそも、年長者が理不尽を押し付けるのは、年少者を世話せねばならないとする義務感を共有していたからといえる。代償として、不審に思っても既存のルールには従ってくれ、挨拶ぐらいは気持ちよくしてくれと。その上で、まずいことが起きたなら年長側が責任を取るのは、暗黙の了解だった。
もし彼女が、責任逃れをする年長者の姿を見てきたのなら、私の説明では納得してくれなかったかもしれない。彼女の過去の出会いに感謝する。
いまや、既存のルールを疑う環境がしっかり揃っている。
テレビや新聞などレールの上に乗ったマスコミが取り上げなくとも、専門書を読まなくとも、Vtuber(自らは出演しないバーチャルYouTuber)が人工音声「ずんだもん」あたりを使いつつ、動画で色々解説してくれる。
所属も実名も明かさないVtuber達は、視聴者への責任を全く持たない存在だが、昭和以来のマスコミのように所属企業や業界のしがらみを忖度してコンテンツを改変する必要はない。
YouTubeなど配信メディア自身が規制をかける心配も、すぐ乗り越えられる。Google(YouTube)やAmazon系だけでなく、中国のBiliBiliあたりも見れば、米国政府に反対するコンテンツなども拾える。翻訳AIもしっかりしてきているから、なんとかなる。
5年前に比べても、情報環境が充実してきた。となると、「自分らですぐ調べられるやろ」とのロジックが成立する。
大学非常勤講師としての私は、学生が知らないのは仕方がないにしても、調べずに済ませたことについては責める。
私を含め、20世紀の学生は疑う環境が制限されていたのだから、それぐらいは言わせていただく。
私の「自分らで調べろ」は、年少者への世話を一部放棄しているともいえる。
年長者が、マウンティングや理不尽の押し付けを止める代わりに、年少者の世話から離れても良いとするのは、自然ではないだろうか。
上司も部下も、先輩も後輩も、それぞれでアップデートする時勢になってきている。共依存関係による、共倒れだけは避けたほうが良い。
以上、実話などを再編したフィクションです。特定の個人や団体を指すものでない事を、ご理解ください。
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ケイゾクエナジー近藤
SDGs的なことを書いていると思いきや、情報社会関連、大学でも教えているボランティア活動などを書き連ねます。斜め視点な政治経済文化評論も書…
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