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書籍紹介『ダライ・ラマの「中論」講義』

『中外日報』2010年5月22日号掲載

 ダライ・ラマ法王は来日講演などで日本人に、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』を学ぶことを強く勧められてきた。ナーガールジュナは日本仏教でも八宗の祖とされ、『中論』は名高いが、たやすく理解できる内容ではない。
 本書は二〇〇六年、南インドのナーガールジュナゆかりのアマラーヴァティーでおこなわれた法王ご自身による『中論』の解説で、長く刊行が待たれたものである。
 26・18・24章というのが、法王が理解のために勧められる読む順番で、それによって浮かび上がったのは、『中論』が釈尊の説かれた四聖諦(苦・集・滅・道)を基本的枠組みとしていること、苦しみの真の原因を突き止め、それを滅することによって解放されるという、現代社会にも通用する実践論であるということだった。

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 十二支縁起を説く26章では、無明から輪廻の苦しみが生じるプロセス(集諦→苦諦)と、無明を滅することによって苦しみを滅することができること(滅諦)が説かれ、18章では、その無明にほかならない、私と私の捉えた世界の実体視(我執)が吟味され、実体がない=空であることが示される。しかし、この空を、実体視に捉われた私たちが正しく理解することは容易ではない。24章は空を虚無論であるとする誤解に基づく論難に対する応答を記した章で、法王は、他に依存して名前を与えられたのみの存在として成立しているという、極めて微細なレベルでの縁起の見解を理解すると、空でない現象は何ひとつ存在しないことが理解できるという18、19偈こそが、『中論』の教えの真髄であるとしている。この解説で最後に位置するのは、24章最終偈の「縁起を見る者は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の、すべてを見る」である。

 実際に本書を手にとられた方は、冒頭で、仏教が一番すぐれていると決めてかからずによく分析して理解すべきことが説かれ、訪れたチベット難民キャンプの小学校で、小さな女の子が法王に向かって堂々と、科学に基づき日食の仏教的説明を否定したことをよろこばれているのに驚かれるに違いない。
 法王は継続的に科学者や心理学者と討議の場を持たれているが、この『中論』講義も、単に伝統だからというのではなく、厳しく内容を検討吟味されたもので、それゆえ得られた理解は、ご自身の生き方や、海外講演での質疑応答で寄せられる、世界平和から身の不幸に至るまでのありとあらゆる質問に答える指針となり得ているのである。

 なお、日本仏教、特に禅の無の教えに慣れた方は、本書で法王が空を「ある」と考えるべきと説かれていることについて、違和感をおぼえられるかもしれない。「ないのではなく、その自性がなく空である」というのが、チベット仏教の、中でもゲルク派に特徴的な説明である。
 悟りは有無を離れた境地といわれるが、それは対象を概念的に捉え、実体視することから解放された状態であり、つまり、有無を越えた無や空という言葉は、言葉を超えた境地をすでに理解している人にしか理解できない言葉なのである。ナーガールジュナの時代から空について誤解があるのもそのためで、ゲルク派の開祖ツォンカパは工夫してそのように説明した。
 これはインドにおける伝統的な説明とは異なるため、他派との論争を巻き起こし、チベット学の専門家にも誤解がみられるところだが、18章7~9偈の法王の解説を読まれるなら、瞑想による空の直接体験(現観)が言語を絶した境地であることを否定したわけではないこと、上記の言い方が概念レベルで学習実践している者を導くための言葉であることが、明瞭に理解できるだろう。

 この講義の背景や意義は、序言と後書に詳しいが、ぶ厚い汚れをぬぐいさり、洗浄によって鮮やかに蘇った名画のごとき、まさに「生きた『中論』の教え」がここにある。
 日本でも近年、僧侶や寺院のあり方をめぐって様々な議論があるが、現代における仏教のあり方を真摯に問われる方々に、法王のこの力強い教えは、何よりの指針となるに違いない。
評者は幸運にも南インドでこの教えを受けることができた者のひとりである。関係者の並々ならぬ努力によって刊行された本書によって、一人でも多くの方とこの至宝を享受する幸せを分かち合うことができることを、心から祈りたい。

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