死のうと思った。でもそれは今じゃない。

 今日、死のうと思った。

「近いうちに死ぬ気がする」とただの一度でも思ってしまうと、死神の足音が日夜聞こえるようになる。何か辛い事があると「今が死ぬ時なんじゃないか」とか「あの時に死が過ぎったのは、この瞬間の為なんじゃないか」と思ってしまう。

 自 殺 という言葉は遠いようで近く、近いようで遠い。波のようにこっちへ来ては離れていく。気が付くといつの間にか僕は足を囚われている。

 ドラマとかで「何かが崩れる音がした」とか「私の中で何かが崩れた」というシーンはよくある。だが実際はそんなことないと思う。徐々に精神がすり減り消耗し、無気力になるだけだ。本当に病んでしまう人は、たぶん、自分の心の悲鳴にさえ気づけない。「何かが崩れる音」を聞き取れるなんて思えない。

 死にたくないけど生きていたくもない と誰かが言った。その気持ちは痛いほどわかる。

 この世界がどれだけ美しいもので溢れているのか、僕は知っている。会って話したい人、食べたいものがたくさんある。行ってみたい場所だって読みたい本だってある。

 しかし、それ以上に苦痛が多すぎる。

 つかの間の幸せのために、身を削り心を抉り、満身創痍、這う這うの体で生きることにどんな価値があるのだろう。辛い思いをして生きることに何の意義があるのだろう。

 意味なんてない、多くはそう言うだろう。だとしたら、僕たちはどうして辛い思いをして生きるのか。意味がないとやっていられないだろう?

 意味をくれ。この辛さの、意味をくれよ。

 辛いなら全てを放り出して見知らぬ土地へ逃げれば良い。でもなぜかそうしない。いやできない。小さなコミュニティに自分を縛り付け洗脳する。ここから立ち去っても生きていくことなど出来はしないと呪う。

 そうして僕たちは矮小で臆病になっていく。独りよがりで傲慢、自己愛が強くて自己評価は低い。そんな歪んだ人間だ。

 くだらぬプライドを守るために容易く人を傷つける。見てくれで人を判断し、「ブス」などと小馬鹿にする。外面で敵わなければ相手の知性を否定する。相手の知性に敵わなければ作法を非難する。

 僕たちは人の粗を探す。それほど心に余裕が無い。

 互いが信頼し合えない社会。別に,信頼し合う必要性もないが、そうであればもっと生きやすくなるだろうなとは思う。“死にたい”と思ったその刹那に「死にたい!」と叫べる社会であったら良い。同時に死んだら後悔すると思える社会であったら良い。

 きっと自然とはそういうものだ。“社会”という枠に居るから見えないだけであって、“社会”という名の霧を払ったその眼前には壮大な景色が広がっているはずだ。そうだと思いたい。

 死のうと思った。でもそれは今じゃない。

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