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冷静な思考 —谷川俊太郎の詩「ごちそうさま」について(再び)—

 以前、谷川俊太郎の「ごちそうさま」という詩について書きましたが、今回は、この詩について、もう一度、解釈し直したいと思います。


   ごちそうさま 谷川俊太郎

  おとうさんをたべちゃった
  はなのさきっちょ
  こりこりかじって
  めんたまを
  つるってすって
  ほっぺたも
  むしゃむしゃたべて
  あしのほねは
  ごりごりかんで
  おとうさんおいしかったよ
  おとうさんあした
  わたしのうんちになるの
  うれしい?


 この詩の語り手は、自分の「おとうさん」の身体を食べても、罪悪感を全く抱かない人物です。罪悪感を持たないどころか、善いことをしたとさえ思っている。この人物がそう思っているということは、末尾の、

  おとうさんあした
  わたしのうんちになるの
  うれしい?

 という記述から分かります。この人物は、「おとうさん」に対して善行を働いたと思っているのです。一体なぜ、この人は、「おとうさん」を食べることを“善いこと”であると考えているのでしょうか。
 それについては、「食べる」という行為について、深く考えてみると分かります。「食べる」という行為は、本来、善いことです。それは、相手の命を奪うことでもあるけれど、自分の身体を育てる、大事な行為でもあります。食べる相手の命に感謝しつつ、美味しく戴く、というのが、食事の基本です。そのことは、タイトルにもなっている「ごちそうさま」という言葉にも、よく顕れています。「ごちそうさま」とは、食事を用意してくれた人への感謝を表していますが、食べた相手の命に感謝する言葉でもあるからです。
 しかし、問題は、そうした食事の基本の姿勢が、自分の「おとうさん」を食べる時にも当てはまるのか、ということです。この詩は、明らかに、その問題をテーマとして掲げています。この詩の語り手の立場はと言えば、この人物は、「おとうさん」を食べる時にも、その基本姿勢は当てはまる、と考えています。ここで、この語り手がなぜ、「当てはまる」と考えるのか、その理由について、想像してみましょう。
 おそらく、この語り手が、「おとうさん」という言葉を口にする時、それは「おとうさん」という一個のモノを指しています。「おとうさん」を食べることは、善いことか否か、という問題を考える時、私たちは、抽象的な概念として、「おとうさん」をイメージしてしまいます。言い換えれば、食べるという行為を行う人物と、「おとうさん」との関係性(具体的には血縁的繋がり)を、イメージしてしまうのです。しかし、語り手が、「おとうさん」と言う場合、それは必ず、個別のモノを表しています。個別のモノ、つまり個別の肉体である「おとうさん」は、語り手にとっては、他の生き物の肉体と、全く変わらない、一つの物体なのです。そのような「おとうさん」を食べることは、何も問題が無いはずだ、語り手はそう考えているのだと推測されます。「おとうさん」という、目の前にある、この一個の肉体は、私たちが普通に食べる他の肉、つまり鶏肉や豚肉と比べて、肉の質が落ちるわけでもない。この語り手は、そう考えて、「おとうさん」を食べることは善いことであると判断したのでしょう。
 このように、語り手は、自分の「おとうさん」を食べることを、普通の食事と何も変わらない、自分の身体を育てる“善いこと”であると判断しています。この判断は、一見、とても奇異に思えますが、実はとても冷静な判断です。なぜなら、「おとうさん」という言葉は、自分との関係性を表す抽象的概念ですが、その言葉が運用される場合、言葉はいつも具体的なモノを指しているからです。だから、誰かが自分の「おとうさん」を食べる、と言った場合、それは必ず、モノとしての「おとうさん」を指しているのです。モノとしての「おとうさん」であれば、他の肉塊と変わらない。そう考えることのできる語り手は、何物にも惑わされない、冷静な思考の持ち主であると言えます。
 もちろん、「おとうさん」を食べてしまったら、この人物の一家は、働き手がいなくなって生活に困窮しますし、この人物は、まず警察に捕まります。しかし、そのようなことは、「おとうさん」を食べることが善いことかどうか、という問題そのものには、全く関係がないことであると、この語り手は知っているのでしょう。
 ですが、だからと言って、人を食べること、あるいは人を殺すことを奨励しているわけではありません。そういう話はしていないのです。ただ、この語り手の存在は、私たちの普段の思考が、いかに冷静でないかということに気づかせてくれる、そのきっかけになるでしょう。

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