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矛盾する心 —小池昌代の詩「手紙」について—

 今回は、詩人・小池昌代の詩「手紙」について見ていきます。



   手紙 小池昌代

  流しのステンレスには
  まるまったなしの皮、ひとつづき
  その裏側へも
  手紙をまっているきもちが
  ずっとふりつもってしまった
  まっていると
  いじわるのように手紙はこない
  またないふりで
  空ばかりあおいでいる方がいい
  それで 夕やけをたくさん見た
  きょうも のぼり坂ばかり歩いている

  冬木町の伝言板には
  五つの顔の指名手配書があって
  そのうちのひとつに
  ご協力ありがとうの張紙
  街のなかで
  強盗暴行犯の顔がひとつだけ忘れられた
  その日 風がつめたくふいて
  十一月がきた

  ゆびわをしていないので
  私のくすり指は すこし
  オキシドールのにおいがする

  目鼻をきちんとつけておいて下さい
  会いにいきます
  うすい手紙が一通
  夜になってから まいこむ


 この詩の語り手の女性は、恋人からの手紙を待っています。彼女はその恋人と近い内に結婚をするつもりでいましたが、まだ婚約が確定せず、寄る辺のない気持を抱えて毎日を過ごしていました。そんな彼女は、恋人からの手紙がついに来ないのではないかという不安を紛らわせるために、散歩をします。近くの街の伝言板には、指名手配犯の写真が五枚貼ってありましたが、十一月になった日に、ついに、その内の一人が逮捕され、写真は一枚だけ剝がされたのでした。街の人はやがてその強盗暴行犯の顔を忘れました。
 その内に、彼女の元には、やっと、恋人からの手紙が届きました。それは、語り手が待ち望んでいたはずの、「結婚の準備を整えておいてください。会いにいきます」という内容の手紙でした。しかし、語り手はその手紙を「うすい手紙」と表現します。「うすい手紙」である上に、「夜になってから」やっと届いたものだ、と彼女は語っているのです。
 以上が、この詩の内容です。この作品を読み終えた時、私たちの頭には疑問が浮かびます。それは、語り手はなぜ、待ち望んでいた手紙が届いたのに、満足しなかったのか、という疑問です。その問いについては、次のように説明することができます。
 すなわち、届いた手紙に関しては、客観的に見れば、恋人の薄情さを裏付ける箇所は一箇所もありません。紙が「うすい」とか、「夜になってから」やっと届いた、という事実は、決して、恋人の愛情の薄さを示すものではありません。また、内容に関しても、簡にして要を得るものであると言え、たとえ一通だけにせよ、届いた手紙は、ちゃんと語り手の期待した内容のものであると言えます。しかし、語り手は、安心できませんでした。それは、彼女の不安や、その裏返しとしての恋人への期待が、非常に大きかったからです。その気持ちが、彼女に現実を客観的に見る力を失わせたため、期待していた手紙が届いても、彼女は虚しさを覚えているのです。
 ところで、先ほど、届いた手紙の内容には、恋人の薄情さを裏付ける箇所は一箇所もない、と述べました。しかし、見方を変えれば、この手紙には薄情とも感じられる表現があることが分かります。
 その表現とは、

  目鼻をきちんとつけておいて下さい

 というものです。「目鼻をつける」とは、物事の見通しをつけることを意味し、ここで恋人は、語り手に、例えば彼女の親などに結婚の話を通しておいてくれることなどを頼んでいるのです。しかし、この「目鼻をつける」という語をそのまま受け取ってみてください。そうすると、まるで語り手の顔がのっぺらぼうであると言われているかのように感じられないでしょうか。
 人の顔がのっぺらぼうに感じられる時というのは、その人の目鼻立ちを忘れてしまっている時です。ここで、強盗暴行犯の写真の話が伏線として機能します。つまり、語り手は、恋人に、自分の顔を忘れられてしまったのではないかという感覚を抱いているのです。
 もちろん、「目鼻をきちんとつけておいて下さい」が、ちゃんと準備しておいてくれ、という意味であることは、語り手も承知しています。したがって、必ずしも、語り手はこの言葉を読んだために不安に陥ったとは言えません。ですから、この言葉の二次的な意味というものは、読者に語り手の不安な心持ちを伝える詩の内容を補強するものとして機能していると言えます。作者は、手紙が届いたのに虚しさを感じる語り手の心の矛盾は、ただその状況を描くだけでは読者に伝わらないと思ったのでしょう。そのため、「目鼻をきちんとつけておいて下さい」という言葉に二重の意味を仕掛けて、読者に向かって、語り手の不安を強調しているのです。
 さて、この詩は、語り手の心の矛盾を描いていました。過剰な期待により、彼女の眼には、現実が歪んで映ってしまっていたのです。……と書くと、大事件が起こったようですが、実際には、このような矛盾は私たちの日常に溢れています。そうした、日々私たちの心をよぎる、小さな矛盾を上手く捉えた作品が、「手紙」という詩であると言えるでしょう。

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