見出し画像

公平な語り手 —谷川俊太郎の詩「ゆめのよる」について—

 今回は、詩人・谷川俊太郎の「ゆめのよる」という詩について見ていきます。


   ゆめのよる 谷川俊太郎

  たろうは ゆめのよるに
  ゆめのふとんを かぶって
  ゆめのねしょんべんを しながら
  ゆめのゆめを みてるまに
  ゆめのパジャマを きたまま
  ゆめのしんくうそうじきに
  すいこまれてしまった
  というゆめを みながら
  かんけいないよ と
  じろうは おもった
  さぶろうはと いえば
  まだおきていて テレビをみている
  そしてしろうは しきゅうのなかで
  うまれようかどうしようか まよっている


 この詩の語りは、一見、奇妙に歪んでいるように思えます。どこが歪んでいるのかというと、例えば、一行目から七行目までの記述の中で、「たろう」以外の全ての名詞に「ゆめの」(夢の)という言葉が冠せられているところです。ここはおそらく、通常は、

  たろうは よるに
  ふとんを かぶって
  ねしょんべんを しながら
  ゆめを みてるまに
  パジャマを きたまま
  しんくうそうじきに
  すいこまれてしまった

 と書くところでしょう。そして、続く三行で、「たろう」に関する夢を、「じろう」が見た、という事実を示していることになるのです。しかし、この語り手はその通常の文章の中の、ほとんどの名詞に、わざわざ「ゆめの」を付けた上で語っています。普通に書けば良いのに、通常とは異なった書き方をすることで、この詩は一見、奇妙かつ歪んでいる文章になっているように思えます。
 作中には、他にも、歪んでいる箇所があります。

  そしてしろうは しきゅうのなかで
  うまれようかどうしようか まよっている

 ここで、語り手は、「しろう」について語っています。この「しろう」は、どうやら、まだ母親の子宮の中にいて、生まれていないらしいのです。しかし、語り手は、「しろう」について、「うまれようかどうしようか まよっている」と述べています。胎児というものは、まだ意思というものが発達していないため、「うまれようかどうしようか まよ(う)」ということは、あり得ません。したがって、この語りは、科学の上での現実と矛盾していることになります。このことも、この詩を奇妙な作品にしている要因の一つになっています。
 このように、この詩には、「奇妙である」とか、「歪んでいる」などと感じられる箇所があります。「まともだ」と感じられるのは、「さぶろう」についての箇所だけです。しかし、奇異に感じられるこの詩のことを、よく分析してみると、実は、とても温かい作品であるということが分かるでしょう。この詩は、温かさに満ちていて、それは、私たち普通の人間の語る言葉が、いかに冷たいかということを実感させてくれるほどです。なぜ、そのようなことが言えるのか、これから説明したいと思います。
 まず、この詩をじっと見つめると、文の骨格が見えてきます。詩の全体が、「たろうは(略)すいこまれてしまった」、「じろうは おもった」、「さぶろうは(略)みている」、「しろうは(略)まよっている」という四つの文章に還元されるのです。そして、この四つの文章は、全て、「誰々は〜」という、一つのパターンを踏襲しています。このように、一つのパターンの繰り返しで、この文章は構成されているのです。これは、言い換えれば、同じ形の文を四つ並列させているということになります。このことから、この詩の語り手は、それぞれの文の主語を、平等に扱っているのだと言えます。具体的には、「たろう」、「じろう」、「さぶろう」、「しろう」の全員に対して、公平な態度で描写していると言えるのです。
 さて、先ほどの、「しろう」についての引用箇所では、まだ生まれておらず、意思というものを持っていない「しろう」に対して、その意思というものを無理矢理作り出して、それを私たちに向けて語っていたのでした。それは、この語り手が、生まれていない「しろう」をも、「誰々は〜」という文章の並列に加えたいと思ったからではないでしょうか。この語り手は、生まれていない「しろう」のことも、ちゃんと人間として認めているのです。語り手の語りには、そのような<公平な態度>で、人間全員に接したいという姿勢が窺えます。その<公平な態度>のためには、科学的事実を多少曲げても構わないと、この語り手は考えているのではないでしょうか。 
 「たろう」や「じろう」についての記述にも、<公平な態度>を取りたい、という語り手の信条が窺えます。「たろう」と「じろう」に関する箇所で、注目すべきなのは、「たろう<は>」、「じろう<は>」、というように、「は」という助詞で揃えている、という事実です。この語り手は、あくまで、「たろう<は>」、「じろう<は>」の形に揃えた上で、二つの文章を並列させたいのです。なぜなら、仮に、「たろう<は>」ではなく、「たろう<が>」という形にしてしまうと、「たろう」を主語とする文章は、「じろう」を主語とする文章に従属してしまうことになるからです。そのため、語り手は、あくまでも、「たろう<は>」、「じろう<は>」、という形を取ろうとしています。
 しかし、その「は」で揃えることを貫いてしまうと、「たろうは よるに/ふとんを かぶって/ねしょんべんを しながら/ゆめを みてるまに/パジャマを きたまま/しんくうそうじきに/すいこまれてしまった/というゆめを みながら/かんけいないよ と/じろうは おもった」となります。これでは、内容はやや伝わりにくいものになってしまいます。なぜなら、「というゆめをみながら」という箇所の主語が、「たろう」なのか「じろう」なのかが曖昧になってしまうからです。「たろう」の文章を「じろう」の文章に従属させることで、「じろう」の夢の中に「たろう」が登場している、という意味が通じるのであり、従属させないと、その意味が通じにくくなってしまうのです。ですが、語り手は、あくまでも、「たろう<は>」、「じろう<は>」として、二つの文を並列させることを貫きたいと考えています。
 そこで、この語り手が取った方法は、「たろう」の行動が、「じろう」の夢の中の出来事であるということを分かりやすくするため、「たろうは〜」という文章の、「たろう」以外の全ての名詞に、「ゆめの」(夢の)と付ける、というものでした。このことによって、「たろう<は>」、「じろう<は>」という並列の形を貫いても、文章の意味をちゃんと読み手に伝えることができる、語り手はそう考えたのです。
 さて、この詩が、奇妙だったり、歪んでいたりする形を取っているのには、このような真相があったのでした。しかし、この語り手の特徴として挙げられるのは<公平な態度>を、とことん貫こうとする、ということではないでしょうか。この語り手のそのような特徴は、この人物の語り方にも顕れているのでした。この人物は、自分の考える<公平な語り>というものを貫くために、事実を曲げたり、「ゆめの」という言葉を何回も使ったりしています。これは、<公平な語り>を貫くためには、他のルールは無視しても構わない、と考えているからだと言えます。そのため、実際には、読み手の私たちには伝わりにくい内容になっています。しかし、語り手の<公平な態度>を読み取ることができれば、この詩が、人間全員を平等に扱いたいという温かい気持ちに溢れた作品であることが分かるはずです。そのような語り手の温かい眼差しは、夢の中の登場人物にすぎない「たろう」や、まだ生まれていない「しろう」にも注がれています。ここには、語り手の徹底した態度が感じられます。
 このように、この詩の語りは、一見、奇妙で、歪んでいるもののように思えますが、よく読むと、そこには、「たろう」、「じろう」、「さぶろう」、「しろう」を公平に扱おうとする姿勢が窺え、語り手の、人間への温かい眼差しを読み取ることができます。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?