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女親が見つめる少年 —新川和江の詩「外出ぎらい」について—

 今回は、詩人・新川和江の「外出ぎらい」という詩について見ていきます。


   外出ぎらい 新川和江

  外出ぎらいな少年は
  父と母を送り出してしまうと
  玄関に鍵をかけ
  ひとりの居間に大の字になって寝ころんだ
  ひたひたと 潮が満ちてくる
  波が うねる
  天井よりもはるか上を
  まっ白に塗りたてた
  どこかの国の豪華船がゆく

  父と母が用事で出かけた
  ひなびた町の
  板廂と板廂の間にのぞく痩せた海よりも
  深く静かな海の底で
  少年はコーラも飲まず
  そうやって
  小半日も溺死をたのしんでいる


 この「外出ぎらい」という詩は、「少年抄」と題された連作の内の一つです。「少年抄」では、どの作品にも一人の少年が登場すると同時に、おそらく語り手自身であると推測される、その少年の母が登場しています。つまり、母親の視点から一人の少年を見つめると言う趣向の作品群が、「少年抄」なのです。
 この「外出ぎらい」も、そのような作品の一つです。作品に登場する「少年」は、留守番の最中に、自宅の居間を海に見立てて、一人夢想に耽ります。ここで、少年の、自分がその底に居ると想像する「海」は、本物の海よりも「深く静か」であると書かれていることに注目して下さい。この記述から、少年の夢想する「海」は、ある種の象徴性を具えているということが指摘できます。つまり、たしかに少年は本当に「海」を夢想してもいるのだけれど、同時に、この「海」については、思春期の少年が構築する、彼一人の世界の象徴である、と捉えることもできるのです。少年が、「自分一人の世界」を構築するという現象は、自我の芽生え、と表現することができます。この詩の「海」は、まさにそうした現象を象徴するものとして登場しているのです。
 しかし、この詩の内容は、そのようなテーマを具体化するだけに留まりません。少年を見つめる母親の視線を感じさせる表現が、作中には存在しています。それは、

  少年はコーラも飲まず
  そうやって
  小半日も溺死をたのしんでいる

 の中の、「溺死」という表現です。部屋を海に見立てるという行動は、先ほど述べたように、少年の自我の芽生えを象徴していると同時に、彼の、遙かなものに対する憧れの感情を示唆するものになっています。いずれにせよ、いかにも少年らしい夢想であると言えるでしょう。しかし、そんな少年のひたむきさにも拘わらず、「海」を夢想することを「溺死」の真似事であると言い切ってしまう母親は、どうでしょうか。そこには、批判とは言わないまでも、少年の真面目な顔つきをやや茶化す趣があるように思えます。もちろん、彼女の「茶化す」ようなニュアンスの内には、息子の成長を微笑ましく思う気持ちがふんだんに含まれていることを、ここで断っておきたいと思います。彼女は決して、冷たい眼差しを少年に向けているわけではありません。その上で、その少年に同調するのではなく、ややからかうような視線を送ること、ここに、まさに語り手が女性であるということの魅力が詰まっているように思われます。
 ところで、詩人の大岡信は、この「外出ぎらい」という詩には作者の母性の眼が光っていると指摘しています。彼は、少年を見つめる母親の眼は、息子の世界を「完全に抱きとり、保護している」と言っています(『現代詩文庫132 続・新川和江詩集』所収、大岡信「新川和江の詩」より)。この詩の語り手が、息子の世界を「抱きと(って)」いるという意見には賛成です。そこに母性の眼があることも分かります。ただし、その「母性の眼」を詳しく分析すると、それは、ただただ相手を優しく包み込むだけのものではないことが分かる、そのように思うのです。
 どういうことか、説明しましょう。先ほど、この語り手の視線には茶化すような、からかうような趣があると指摘しました。このような趣は、語り手の、相手を対象化する姿勢から顕れているものだと考えられます。相手を対象化するということは、つまり、自分とは違うものとして、相手を発見するということです。ただし、結局は、この視線は少年の姿を微笑ましく見守るものに収斂していきます。だから、相手を「抱きとる」眼、という大岡信の主張は間違ってはいません。しかし、その母性の眼の底には、ただ相手を保護するだけではなくて、相手を対象化し、自分とは異なる存在として見つめる姿勢があることを指摘したいのです。
 その、相手を対象化する視線は、語り手が女親であるという事柄に基づいています。つまり、少年とは性別が異なるため、息子という存在は、語り手には、自分とは異なるものとして認識されるのです。このことが、彼女の口から「溺死」という言葉を引き出したのでしょう。言い換えれば、この詩においては、語り手は女性であることによって初めて、少年を対象化する視点を獲得している、ということです。
 少年は「海」への思いに焦がれているけれど、女親から見れば、その夢想は、単なる「溺死」の真似事にすぎない——。この、女親が少年を見つめるという構図は、遙かなものに焦がれて止まない少年の像に、女性の視点を付け加えた、画期的なものではないでしょうか。遙かなもの(ここでは「海」がそれを象徴しています)に心惹かれる少年のイメージは、古典的なものであると考えられます。「海」というと、少年にとってのロマンの象徴としてのイメージがすぐ浮かぶのも、そのイメージを踏襲してきた文学作品の影響があると思います。語り手の女性は、このような少年像に自分の視点を付け加えることによって、新しい構図を生んでいます。
 このように、この詩はまず、少年の自我の目覚めを「海」というモチーフを使って効果的に表しています。しかし、自我の目覚めという現象のただ中にいる息子を、母親は、微笑ましく眺めながらも、自分とは異なる存在として、どこか対象化する視点を獲得しています。そのことは、「海」に焦がれる少年という古典的なイメージに対し、新たな要素を付け加えるという結果を生んでいます。いずれにせよ、この詩は、ただ少年の夢想を描くだけでは詩として完結せず、母親の視点を俟って初めて、作品として意味を成すのだと言えます。

 


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