見出し画像

あやうく「他人の目」ばかりを気にして生きるところだった。

最近になって、私の中で無意識に育っていた価値観に気が付いた。

「人からどう見られているか、気にしすぎじゃない?」

洋服を選ぶときや一人でご飯屋さんにいる時に、不特定多数の人からどう見られているかを気にするということではない。

そこそこ関係がある身近な人から「どういう人間か」と思われることを、かなり気にしていた。

私への期待値が下がりそうなとき、焦りや恐怖に近い感情が押し寄せて、無理にでも頑張ろうとする。

「しっかりしてそうなのに、几帳面じゃないね」とか、「女性らしいかと思ったら、男っぽいね」みたいに、相手の期待を裏切ることを申し訳ないと思っていた。

「相手が私のことをどう見ているか」ということと、「私はどんな人間であるか」ということに直接的な関係はないのだけれど...。

本当の私はというと、ほとんどのことはアバウトだし、カワイイよりもカッコいいを選んだ方が気分があがる。

心を許している人にはそのままの自分でいられるため、イメージと違うと思われたとしても取り繕うことはしないけれど、心を開けない人にはなぜか相手のイメージを壊さないようにしようと自分を偽ってしまう。

その結果、違和感を感じながらも、身の丈に合っていない自分を演じて苦しむことになる。

人からの評価なんて最初から気にしなければいいと思うかもしれないけれど、そうすることが当たり前と思って生きてきたのだから仕方がない。

当たり前と思っていたことが実は違っていたなんてよくある話で、中学生の時に、友達からムダ毛は処理するものと知って衝撃が走ったように、大学の時にジーパンは定期的に洗うものと知ってカルチャーショックを受けたように、時間がかかったとしても新しい発見ができたのだから、そのことに気づけただけでも満足である。(ベストジーニストの草彅くんがジーパンは洗わないものって言ってましたよね...)

話を少し戻して、人からどう見られているかを気にする性格は、自己肯定感の低さが影響していると思っていたけれど、それよりもアダルトチルドレンという特性に近いのかもしれないと最近思うようになった。

アダルトチルドレンを簡単に説明すると、親子関係で何らかのトラブルがあった子供が、大人になったときに生きづらさや、相手からの評価に過敏に反応するという性格をもつようになる人のことである。

あくまで個人的な感覚だけど「見た目は大人、中身は子供」の逆コナン状態である。

そのため、学生時代は生き辛さなんてほとんど感じなかったけれど、社会人になり周りの人と接する中で、「みんなめっちゃ大人じゃん」と、社会に出て10年たったいまでも心の中でビックリしたり、自分に負い目を感じたりしている。

アダルトチルドレンかどうかを調べるために、まずは専門家の話を聞いたり、本を読むべきなのだろうけど、1時間1万円のカウンセリングに行く勇気がなかったり、仮にアダルトチルドレンと言われたとしても「そうなんだ」ぐらいにしか思わない気もするため、私がアダルトチルドレンに近いと感じたのだから、多分そうなのだろう。(もしかしたら違うのかもしれないけど。)

「人からの評価を気にしすぎる」性格は直したいため、原因となった出来事を探してみると、幼少期の記憶がこみあげてくる。

「お母さんに恥をかかせないでちょうだい」

小学生の時、ことあるごとに母親から怒られた。

悪さをしたせいで怒られることはわかるけれど、「嘘をつくな」という怒り方ではなく、「恥をかかせるな」と怒られたため、目の前で母親が泣いていても、共感することができなかった。

素直に謝ったけれど、「嘘をつくことは悪いこと」というよりも、「お母さんを泣かせるのは悪いこと」と思うようになり、母親の価値観に敏感に反応する子供になった。

相手の気持ちに敏感になれるというのはいいことなのだろうけど、今思えば意味もわからず怒られたり不機嫌の感情をぶつけられたりしていたので、何が正解なんて分かるはずもない。

100点の答案用紙を持って帰った時に、原因もわからずに不機嫌というだけで怒られたことには、さすがにやるせなさを覚えた。

自分の行動の評価軸を相手に委ねるようになったのは、多分この頃からだと思う。

自分の中に「私はこういう人間である」という性格を定義付けすることができずに育ってしまったため、一緒に話す人が変わるだけで、私の中身の性格も変わる。

自分の性格なのに自分でコントロールができない気質は、住む場所がコロコロ変わって落ち着かないように、私の心も落ち着かずに負担がかかる。それを周りから見たときに良い顔をしていると思うのかもしれないけれど、まだ今は仕方のないことだと思っている。

アダルトチルドレンの特徴のひとつに「自分がない」というものがあるけど、子供の時から自分を優先するのではなく、「他人から見て良い人」になろうとしたのだから、自分がないのは当たり前である。

そのことで思い悩む必要はない。

人と何かが違うと感じていた違和感が、ただの思い違いではなく、原因があってのことなんだと知ることができただけでも、自分のことを許せてあげられたような気がする。

おそらく、このままいくと70歳、80歳になったときに「人の目を気にせずに、もっと自分らしく生きればよかった」と後悔するのだろう。

気のあう人と一緒にいる時にだけ、居心地のいい自分でいるのではなく、どのような人とでも飾らずに居心地のいい自分でいられるよう、「自分らしく生きてるな」と感じていきたい。

せっかく自分に生まれたのだから、他の人に気を遣うよりも、自分の気持ちにもっとわがままに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?