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私が本を読む理由。

本に親しむようになってもう10年。

勤勉な読書家とかではないけれど、水を飲むことが当たり前みたいな感覚で、本を読むことが生活の一部になった。
しかし、1年前ぐらいにふと...
「あれ?私ってなんで本読んでるんだっけ?」

なぜか急に、自分の行動に疑問を持ち始めた。

1回気になりだしたら、答えが見つかるまで気になってしまう。

子供ならよくある「なんで?なんで?」という姿勢を、大人になっても持ち続けるという、無駄に探究心強めな性格に生まれてしまったため仕方ない。理由を見つけるとするか。

ということで、自分探しならぬ「本を読む理由探し」が始まった。

 

 

まず簡単に本に親しむようになったきっかけだけれど、クラスに仲のいい友達がいなかった中学1年生の時、休み時間にすることがなかったため仕方なく図書室に行って本を読んでいた。

その時は楽しいと思わなかったけれど、文字を読むことが習慣になり、家に帰っても制服を着たまま、一番に新聞を広げて隅々まで読むという、子供にしては一見地味なルーティーンを1年ぐらい続けていた。

その時は本を読むことが好きというよりも、活字に触れることが好きというぐらいだった。

本の楽しさに気づいたのは、社会人になってからのこと。バスの乗り継ぎのために時間が空いた時、雨と寒さをしのぐために近くにあったBOOK-OFFにふらっと立ち寄った。

陳列棚を流して見ているなかで、私の目にとまったタイトルと背表紙。タイトルは知っていたけど、それまで読む機会のなかった「金持ち父さん貧乏父さん」という本だった。

働き始めてお給料が貰えるようになり、実家暮らしだったこともあって、いつの間にか貯金ができつつあった。「ちょっとお金の勉強でもしてみるか」とその時の気まぐれで、300円ぐらいで本を買った。

残念ながら10年たった今もお金持ちにはなっていないけれど、知識が増えたという経験は楽しくて、本が楽しいと思うきっかけになった。

それからいろんなジャンルの本を読むようになり、細々と月に1,2冊は読んでいる。

少し前置きが長くなってしまったし、本を読む理由は「楽しいから」っていう答えが出てるような気もするけれど、この先もう少し考えを掘り下げてみる。

視点は違うけれど、登山家が山に登る理由を「そこに山があるから」と答えたあとに「とはいってもなぜ?」というスタンスで食い気味につっこんで話を聞くぐらい、自分にもつっこんで本を読む理由を探ってみた。

ひとまず、本を読む理由と思われることを挙げると、

・新しい知識を増やすため
・視野を広げるため
・勉強のため
・語彙力を増やすため
・楽しむため

と、どれももっともらしい理由だけど、私の中ではあまりピンとこなかった。

それから、本を読んでいるとわかった人に対して、初対面の相手でも不審に思われない程度に「なんで本を読んでるんですか?」といろんな人に聞いてみたけれど、「自分が経験していないことを経験するためじゃない?」と答えてくれたりもしたけど、やっぱりピンとこなかった。

それからなんでだろうと暇なときにも考えてみたけれど、これといった理由が見つからないまま時間がたった。

しかし先日、SNSで見た書評から興味が湧いた本を購入して読んでいるときに、ようやく自分が本を読む理由が見つかった。

それは、自分がまだ知らないけど、多分知りたいと思うことが書かれているだろうという思いで、テンポ良くページをめくっていた時だった。

「あれ、なんか辞書をひくみたいな感覚...」

そう、自分が知らない言葉を辞書でひくように、知らない考え方をその本から見つけようとしていた。

先に書いた「新しい知識を増やすため」や「視野を広げるため」という理由もあてはまっているといわれれば、そうかもしれないけれど、

知りたいと思う言葉がない時にパラパラと辞書をめくらないように、ワンピースがなければルフィが航海に出なかったように、自分が知りたいと思うことがなければ、本を読んでいなかったと思う。

知らないことを知りたいと思ってその答えを見つけるために本を読んでいくうちに、結果的に新しい知識や視野を広げてくれているという感覚だ。

探しものをする気持ちで、自分がまだ知らない答えを見つけることが、私が本を読んでいる理由なんだということがわかった。

そして、その考えが浮かんだあと、他にも本を読む理由が見つかった。

それは「自分の考えの答え合わせをするため」ということ。

4,5年前に自分なりの考え方で価値観を築いていこうと決心してからというもの、私の考え方はなかなか周りの人から共感を得にくいんだなということを知った。

自分のなけなしの思考力と、精度がバグっているかもしれない観察力で築きつつある価値観は、周りからしたら間違っているように見えるかもしれないし、危ない橋を渡っているのかもしれない。

けれど、自分が見たものや感じたことを自分で信じられなくなったら、誰も自分のことを理解してあげる人がいなくなるということで、共感されなくても自分なりの価値観をもつことにした。

そんな中、たまたま読んだある一冊の本に、私の考えに近い内容が書かれていて、私が感じたり、考えたりしたことは間違ってはなかったのだな、と著者が答え合わせをしてくれたような、そんな気がした。

 

 

その価値観というものは家族関係のことで、人に本音で話した時に否定されることが多かったため、普段その話題を口にする時は表面的に取り繕うようにしていて、ほとんど誰にも話すことはしていない。

(この考えを以前文章にしたものがこちら。もし興味を持って頂けたら)

直接会って話した人からはほとんど理解されない価値観だったため、その本を読んでいた時は電車の中だったけれど、感情を抑えきれず途中の駅で降り、誰もいないトイレで泣いた。悲しかったわけではなく、自分の考えは間違ってなかったんだなと、認められたような気がして、安堵の気持ちでしばらく泣いていた。

自分の考えを答え合わせをしてくれるような本に出会うことは稀なことだけど、本を読んでいたらそういう偶然な出会いもあるんだなと、本を読む理由が増えた。

そして最後にもう一つ、純粋に「楽しむため」に本を読んでいる。

映画を見たり、美味しいものを食べて息抜きをするように、ただ本を読むことも私には一つの息抜きになっている。

頭を使って読む本も、何かを知ろうとして読む本もあるけれど、気分転換をするために読む本もある。

「楽しいことに理由はなくていい」

これが3つ目の理由で、なんだかあっさりしているような気もするけれど、少し抜けた部分もあった方が、自分の気楽な性格に合っていていい。

ということでまとめると、

・自分が知りたい答えを見つけるため
・自分の考えの答え合わせをするため
・楽しむため

が私が本を読む理由である。

こうして、「本を読む理由探し」は一旦終わったのだけど、最後に本にまつわることで、私の頭からずっと離れない風刺画がある。
 

 
本を読むほど見える世界は変わってくることを表現したものだけど、今私がどの高さにいるかは分からないし、色んな本を読んだ先にどんな世界がひろがっているのかも分からない。

けれど、この風刺画を理解できる日がいつかくるのかなと淡い期待を抱きつつ、しばらく積ん読したままになっている、内容もページ数もツワモノの本達を、この年末に少しだけ片付けようと思う。

 

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