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私にヨガの先生はできません!【第二十三話】橘さんもかつては
【第二十一話:橘さんもかつては】
フィットネスクラブ・アルタイルに到着したのは、十四時十分だった。一足先にウェアに着替えたらしい雲井さんが、飛びつかんばかりの勢いで出迎えてくれる。
「笹永さん!! ありがとうございます」
その他の社員さんやアルバイトの方たちも「助かった」「よかった」などと口にしていて、ほっとしていることが見て取れた。
「い、いえ。あの、すみません。ホットヨガスタジオに音源置いたままで……。貸してもらえませんか? あと、アロマも」
周囲の勢いに押されながらも事情を説明する。
「もちろんです! アロマは今、スタッフが準備してくれてます。あ、あとこのタオルも使ってください。それから、ティンシャあります?」
「あ、それもベガに」
「ですよね! これ、もしものときに備えて店舗に置いてある予備のCDです。ティンシャは私の使ってください!」
雲井さんはヒーリング系のCDと黄金色のティンシャを手渡してくれる。
「助かります!」
「それから、あとお水ですね! 私、買っておいたので、これ飲んでください」
「え、お金を……」
「いいんです! はい、お着換えはこちらです」
雲井さんに引っ張られて、更衣室に押し込まれる。
私はあれよあれよという間に、必要なものを揃え、着々とレッスン準備を整えていた。
「十五分から十分前くらいに館内放送するんです」
雲井さんはそう言って、緊急代行時に読むための台本を渡してくれる。それからお手本のように、先に館内放送をしてくれた。
さすが、大型のフィットネスクラブ。ベガではレッスン前の放送はしていない。
私は館内放送用のマイクを手に取り、小さく深呼吸した。心の中で「よしっ」と呟き、マイクのスイッチをオンにする。
「いつもフィットネスクラブ・アルタイルをご利用いただき、誠にありがとうございます。まもなく十四時三十分からホットスタジオにおきまして、リラックスヨガのレッスンをおこないます。本日は橘に代わりまして、笹永が担当いたします。急な代行となることをお詫び申し上げます。皆様のご参加、心よりお待ちしております」
突っかかりそうになりながらも、ゆっくりと読み上げる。台本を見ながらの放送だというのに、レッスン以上に難しく感じた。
たぶん、初めてだから。
それを思うと、普段からやっているレッスンをすることは、環境が変わっているとはいえど、ハードルの高いことじゃない。
そう言い聞かせながら、私は雲井さんと階段を上り二階にあるホットスタジオへと向かう。
「橘さん、どうされたの? 朝、見かけた気がするのだけれど」
スタジオの前で一人のマダムが雲井さんに話しかける。ツヤのあるブラウンのシニヨンヘア。身につけているのは、ぱっと目を惹くおしゃれな花柄のウェア。
肩から腕にかけてきゅっと引き締まっていることから、運動に慣れていることがうかがえる。
きっと、アルタイルの常連さんだろう。
「体調不良で早退されたんですよ」
雲井さんが答える。
「あら、そうなのね。大変ねえ。今日は時間ができたから、彼女のアロマヨガ、受けようと思っていたのよ」
その方は、ちらりとこちらに視線を向けてくる。品定めをされているようで、なんとなく気まずい。
「アロマヨガのレッスンは、姉妹店のスタッフが代行でおこないます」
「笹永と申します。よろしければ、ぜひご参加ください」
私はぺこりと頭を下げた。
「姉妹店のスタッフさんなのね。通りでお名前を拝見したことがないと思っていたわ。じゃあ、せっかくだし受けて行こうかしら」
そうだ。すでにフィットネスクラブ・アルタイルでレッスンを持っているインストラクターが代行するなら、会員さんも「ああ、あの人ね」となりやすい。
今回は、名も知らぬ人が代行するということで、少し警戒心を抱かれていたのかもしれない。きっと、この方も橘さんのレッスンがないのなら……。と考えていたのだと思う。
「ありがとうございます!」
私は元気よく、言葉を返す。
その方は、よろしくね、と言うとホットスタジオへと入って行った。
入れ替わるように、ボブヘアのにこやかなスタッフがホットスタジオから出てくる。ふわりと柑橘系の香りが漂った。
「あ、笹永さんですね。今日はありがとうございます! 私、絵馬と言います。アロマ準備、ばっちりですよ」
絵馬さんが笑う。
「ありがとうございます!」
「あ、そろそろですね。音楽デッキの使い方を説明しなきゃですね」
雲井さんは、スタジオ内の時計を覗き込みながら言った。
もう、レッスン七分前。ここに到着してから、怒涛のように時間が流れていった気がする。おかげで大きな緊張感に襲われる暇がなかったのはいいことかもしれない。
「はい! お願いします」
私がレッスンを担当するホットスタジオには、すでに十五人以上の人がいて、仰向けになりストレッチをしていたり、あぐらの姿勢で目を閉じていたりと、ヨガマットの上で自由な時間を過ごしている。
「ここが、音量調整するボタンです」
雲井さんはCDをセットして再生ボタンを押すと、他の会員さんの迷惑にならないようにと、小声で音楽デッキについて解説してくれた。
「あ、はい。たぶん、うちのとほとんど一緒ですね。大丈夫そうです」
私はうなずき、雲井さんにお礼を伝えた。
「よかったです。では、お願いします!」
雲井さんは、両手を揃えて拝むようなしぐさを見せて去って行った。
レッスン開始まではあと三分。ホットスタジオ内にいる人数は一人、二人と、増えていく。
私はぐるりとスタジオ内を見渡した。四隅には、アロマディフューザーが置かれていて、白い蒸気がもくもくと立ち上がっている。
レッスンがスタートする直前、心の中で数えた人数は二十七人だった。これは、私の経験上でもめったにない数。あらためて、橘さんの人気さを思い知る。ここにきて「ちゃんと、彼女の代わりができるだろうか」という駅のホームで感じた不安が膨れ上がってくる。
いや、違う。
橘さんの代わりを目指さなくていい。
今は、目の前の人たちのことを考えよう。
小さく深呼吸をすると、爽やかな香りが胸いっぱいに広がった。あ、これ、多分ベルガモットだ。
気持ちを落ち着かせ、明るい気分にしてくれる香りだと聞いたことがある。
うん、大丈夫。
「それでは、お時間になりましたので、レッスンをはじめていきます。本日は橘の代行として、私、笹永が担当いたします」
私は一人ひとりの顔を見ながら、ゆっくりと六十分のアロマヨガのレッスンを進めていった。
「ありがとうございました!」
レッスン後、ホットスタジオの入口のところで参加してくれた方々をお見送りする。
「ありがとうねえ」
「姉妹店はどちらにあるの?」
「癒されたよ」
そんな風に、お礼を言ってくださったり、声を掛けてくださったりする方もいて、ほっとする。
誰もが笑顔だった。
そのことがなにより嬉しい。
私、やりきれたんだ。
そう思ったときだった。
「あの、今日のアロマ、凄く好みなんですけど何の香りでしたか?」
私と同い年くらいの女性が尋ねてくる。
その言葉にはっとした。
アロマヨガのレッスンって、その日焚いているアロマについての解説も入れないといけないんじゃないだろうか……。
すっかり忘れていたどころか、アロマの種類も聞きそびれている。香りからすると、ベルガモットだとは思うけど、適当なことは伝えられない。
私としてことが、やってしまった。
「あ! えっと……」
私が焦っておどおどしていると、後ろから先程のマダムの声が飛んでくる。
「ふふ。先生、緊急での代行だったものね。バタバタして、アロマの種類を聞く時間もなかったのではないかしら?」
思わぬ助け舟だ。
「あ、そっか! すみません、いきなり」
女性がはっとしたような表情となり謝る。
「いえ! こちらこそ、申し訳ないです」
私も負けじと頭を下げる。
「ふふ。アロマを準備してたのはここのスタッフだったから、カウンターで聞くのが早いと思うわよ」
マダムが言う。
そのとき、隣のスタジオで、さっきまで会員さんのお見送りをしていた雲井さんがすっとんできた。
「すみません! こちらがお伝えし忘れていて! 本日のアロマはベルガモットです」
どうやら会話の内容は聞こえていたようで、すぐに答えてくれた。
「わかりました! ありがとうございます」
女性は嬉しそうに笑い、背を向けて去っていく。
「あ、ありがとうございました」
私はマダムへとお礼を伝える。
「いいのよ。あ、あなたのレッスン、よかったわよ。なんだか橘さんの初期の頃、思い出して懐かしくなったわ」
「橘さんの?」
そう尋ねたのは、私ではなく雲井さんだった。
「そう、そう。もう七年以上前になるかしら? まだ、人数が今みたいに多くなくて九人くらいだったかしら」
「ええ?! 九人ですか?!」
素っ頓狂な声が上がる。
「あ、うち、スタジオが三つあるから、同時刻にお客さんの取り合いになるんですよね。だから、十人以下も珍しくないんです」
雲井さんが言った。
「あ、そうですよね」
スタジオがひとつしかないベガよりも、よりシビアな世界なんだとしみじみ思う。
「あ、橘さんの名誉のためにお伝えておくわね。決して彼女のレッスンがヘタだったわけではないの。わかりやすいし、こうやって今でも通ってるくらいだから」
マダムが言った。
それでも、集客が難しい状況の中で、橘さんは何を考えていたんだろうか。
「あ、はい!」
「じゃあ、またどこかで」
おしゃれなマダムは去り際も美しかった。
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