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河原町のジュリー【増山 実 作: ジュリーの世界を読んで】

余り感想文や、書評はしないので自分の思い出と共に。

河原町のジュリーは京都の繁華街、河原町四条ー三条界隈に1970年頃に徘徊していた有名なホームレスである。
私が学生で京都に住んでいたのは、1990年の後半なので実際に見たわけではないが、噂を耳にした事はある。
なお、河原町阪急を下った柳の下に長らく居た、老女の立ちんぼには、お会いしたことがある。

80年代は世間がバブルで、とても浮かれていた時代だ。
反面、人権意識やマナーは今では考えられない程悪い。当然、差別感もまだまだ色濃く残り、国民総下流からやっと抜け出し始めた時代だ。

野良犬ラッキー

私がまだ3歳くらいの頃、下町ロケットで有名な東大阪に住んでいた。
大阪の中でも、治安が悪い訳ではないが、良いように言えば下町だった。総じて所得は低く、我が家も1年に一度位、やっとこさ近くのとんかつ屋に連れて行って貰える程度だった。

住んでていた町内に、「ラッキー」と呼ばれる野良の雌犬がいた。
人を怖がったり、吠えたりはしない大人しい犬だったが、誰に懐くわけでもなく、尻尾を振る事もなかった。
思えば野良ではあるが、プライドの高い犬だったのかも知れない。皆がラッキーと呼ぶので、何となく自分の事だと認識はしていた様だが、呼んでも近づいては来ない。

町内の真ん中に、駄菓子屋兼パン屋のヤマザキショップがあり、放課後は近くの子供たちで賑わっており、ラッキーも時々姿を見せては、お菓子を分けて貰っていた。

住処は近所の長屋の出窓の下に居座っていた。
だからと言って、誰も邪険にもしないし、特別飼ってやろうと言う人もいなかった。おっぱいが大きくなっていたので、子供を産んだ事があるようだった。子供は引き取られたのか、見た事はない。
そこに居るのが当たり前で、特にいたずらも危害も加えてこないので、町内みんなで何となく見守っていた。

神戸に引っ越しをした数年後、町内を通ったがラッキーの姿はなく、保健所に捕まったのか、どこかで死んだのか分からず仕舞いであった。

アカデミックホームレス

その後関西から埼玉に親の都合で引っ越し、一番近い都会が池袋になった。
まだ小学生だった私は、親に連れられて都内に何度か行った。

山手線に乗り換えの為、西武池袋駅から地下通路を通るのだが、そこは当時ホームレスで溢れていた。ズラッと段ボールハウスが並んでいた。
今では考えられない光景だが。
当時は90年代の最も日本が輝かしい時代。
反面、今では想像もつかない程暗い部分があったのも事実。
日向が明るい程、影は濃くなる。

母と共にそこを通った時に、座り込んでいる一人のホームレスの手元が見えた。A4サイズ位の赤い表紙で、装丁も美しい本が傍らに積みあがっており、手には多分、ドイツ語か英語の原書だった。
その人はブツブツと小さな声で音読していた。
子供心に衝撃の出来事で、「勉強しないと〇〇みたいになるよ!」とまあ、これも今どき良くない教育だが、心のどこかでホームレス=勉強していない人。と言う意識があったのかも知れない。
本当に読んでいたかまでは分からない。しかしながら、高学歴のホームレスが混じっていただろう事は確かだろう。
人生は、どこでどう変わるのか分からないと、強く思った出来事だった。

ジュリー

さて、ジュリーは実在の人物だが、この本も私見でしかないと言い切っている。有名だが、最後まで謎の人物だったと言う事だ。
ジュリーに限らず、1970-90年くらいはごく当たり前に橋の下や、公園、地下街などにホームレスが居た。
人口減少も理由の一つであろうが、日本が豊かになりまた、受け皿や救済の道が増えたのもあると思う。

京都は住めば分かるのだが、非常に冷たい街でありながらも、新しい物や人を受け入れる器がある。
学生の街でもあるため、ほぼ4年ですっかり人が入れ替わる為、新陳代謝が激しいのかもしれない。
有名な京大も、立て看板がなくなってしまったが吉田寮の伝説の数々、鴨川デルタの宴会、丸太町のこたつ事件とアホが絶えない。
しかし、その自由度の高さが新しい物を生み出す事を京都人は分かっている。多方面からはみ出し者が集まり、化学反応を起こし京都に新しい文化と成長を生み出す。そんな流れが京都にはある。

だからこそ、ジュリーの様な人さえも受け止めていけたのではないかと思う。きっと、ジュリーが本当は天狗だったとしても、京都人は驚かなかったのではないだろうか。
異物として人間の持つ本能がジュリーに対して恐怖感を与えたとしても、ジュリーを人として扱う優しさや、想像力が存在する時代だったと思う。
私も、「ジロジロ見たらあかん!」とは言われたが、「そんなん、見たらあかん!」では無かったので、チラと見るだけにしろ、と言う意味に捉え、居ないように扱えとは言われたとは思っていない。

ジュリーには出生を含めて、噂が絶えなかったようだ。
それは、裏を返せば皆が見守っている証拠でもあり、気遣ってもいると言うことだ。そして、その背景に同情をし(勝手な想像からだが)何かを見ていたのだろう。
この人に対する想像力が、平成・令和と時代が進み最も日本人から失われた美徳ではないかと思う。
美醜、金、有名・無名、人の表面に見える所で完結してしまう。
人として同じ目線に立つことを良しとせず、どこか自分が優位に立てる所はないかと探る。
その目線しか持ち合わせていなければ、ホームレスは最低の人間だろう。
しかし、何年も勉強したのに人生で英語の原書など、読んだ事がある方が少ないだろう。何か、事情があって地べたに座りながらも学びを止めない人間は尊敬に値するとは思えないだろうか?

ジュリーの話を読んで、何か自分も失ってきているのだな、と痛感した。
スマホは持てるが、心は貧しくなっている。

文庫版も出ているので、是非手に取ってみてください。




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