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心底吐露

以前に少しだけに鬱日記で触れましたが、たまたま私は腰痛で外科に掛かり、別の病気があるかも?と言う発見がありました。
実は、この岸さんと同じ骨髄腫の疑いがあります。
まだ、順番に検査をしているので確定ではありませんが、まだ可能性があります。

現在の医療では完治はしない病気で、発覚後はどれだけ通常に暮らせる日を伸ばせるか?になるようです。
内臓から転移か、それとも骨だけなのか?によっても違ってくるようですが、長生きは出来そうにありません。
治療は年々良くなっているとは言え、5年の生存率は50%とのデータもある。

正直、明日の検査が怖くなる。100%の診断はないのかもしれないけれど、聞かないと疑いも晴れないが、確定も有り得る。
出たとこ勝負でしかない。
あれこれ書いている今をまた笑い話のネタに出来たら良いのだが。

ただ、アラフィフで思うのは、もしも確定だとしたらもうちょっと生きたかったなぁ…と思う。今の日本の状況で老後が明るいかと言えばそうでもないけど、こんな悩みも出来れば65過ぎてからくらいにしたかった。
今も休職してるから、自分はいなくても社会は回るのは分かっているのだけど、完全に消えて無くなるのは無念。
生涯の趣味と決めていた事も、既に良性だったとしても早い内に厳しくなりそうなので、思いついた時に縁を切った。
今は、思い切っておいて良かったと感じてる。あれこれ考える時間が長いと踏ん切りが付かない。

親が二人とも健在の内に余り心配もかけたくないし、先に逝くのだけは許さんと、しつこく言われているのもあり、余計に結果が怖い。
この骨髄腫自体は難病だし、なる可能性は低い病気らしいが、癌自体はもう誰でもなる病気に近いから、自分だけが不幸だとは思わない。
でも、やっぱりどう考えてもちょっと早すぎる。
鬱で希死念慮も持った事がある人間が、いざ現実を見ると恐怖に駆られるのはどうにも皮肉な話だが、良いように考えれば鬱が快方に向かっているからこそ、心配になるとも言えるのか。

もしもの話ばかりだが、治療をしたとして完治しない状態で、果たして私は前と同じような顔をして、私は難病患者なんだ優しくしろと周りに甘えず生きて行けるのか、ここも不安で仕方がない。
人間は弱い。自分はもっと弱い。特別扱いを求める浅ましい人間に落ちはしないだろうか?自信がない。
年寄りや障害のある人が、特権かの様に振る舞う姿を見て、眉を顰めてきたのに、自分もなりそうな気がしてならない。

昔から言われている様に、確かに「死」を自分の中に意識すると、上述の様に「生き方」を考えないといけなくなる。
何を優先するのか?お金?時間?経験?
唯一の救いはこれで自分が思っていた以上に自分の寿命が短いのだとしたら、まだ悲しんでくれる人が多く生きている事か。
余り長生きし過ぎて、誰も知り合いがいなくなってから逝くのはちょっとだけ寂しい。少しは思い出して欲しい、死んだら泣いて欲しいと勝手に願う。
泣いてもらえる価値があれば、の話だが。

初期症状が頭痛や眩暈、腰痛やら普段誰にでもある、当たり前のような症状が、この病気の初期症状らしい。だからなかなか見つからない。
知ってしまったし、種がある事が分かってしまった以上、これから頭痛だけどバファリン飲んで頑張る!とは言えなくなってしまった。
今後、元気に仕事してると、多分イチイチこの事を説明しなければならず、難病持ちだと、ヘルプマークや障碍者手帳を持った方が生きやすい、と言う事になるのだろう。

私も今まで、病気の人の話や葬儀には年齢なりに接してきた。若くして亡くなった親戚もいる。分かったつもりでいただけだったと、痛感させられてる、どれだけ重たく、辛いことなのか何も分かっていなかった。
今になって、30代で亡くなったあの子は一体病院で毎日どんな気持ちで居たのだろう。見舞いに行くと笑顔で話してくれたけど、心中は今私が書いている状態の何倍も辛くて怖かったのではないかと思う。
ステージ4と宣言されて、今も仕事をしている友人も居る。凄い精神力だと思う。
先達の死を見て、今日を意識して悔いの無いように生きなさい、とは良く聞く言葉だが、果たして本気でそう思えるのは、こうやって現実に死の体温を傍に感じ始めてからではないだろうか?
実際に、私はそうだった。

多少は仏教などを勉強したり、本を読んだりしていたので死生観については、それなりに思う事や、自論はあったがその圧倒的に確実な「死」と言う物に対し、やはり欠片も理解をしていなかったのだと痛感している。

健在の母は、もう既にその辺りを達観しているようだが、やはり人間は子供がいて、成人してそれなりに暮らしている姿を見れば、自分の役目として満足を感じられるものなのだろうか?生物として、それは圧倒的に正しい感覚だと思う。だが、人間はどうなのだろう?
例え微生物だとしても、次世代を残す事で自分の存在を否定される事なく、生まれ死ねる。そうでない自分は、生物としてはとても異常が故に、悩みと業が人より大きいのだろうか?
保険とは言え、お金を貰い使う事で、まだ社会とは僅かばかり接点があり、貢献しているとも言えるが、労働力としては機能していないこの時に発覚した事が、余計に「満足な死」とは何だろう?と思わされている。
やはり、どう考えても死に対しての準備が無さすぎる。

私は長らくバイクに乗って来たので、事故の話も書いたが、アレは幸運だったからこそ今、面白く話す事が出来る。
あの事故で、足が無くなって車いす生活を今していたら、楽しく生きているだろうか?バリアフリーの無さに憤慨して、ネットに晒して文句を言ってないだろうか?
突然、自分が悪くなくても死ぬ可能性が高い趣味だったので、「その時」を考えない事はなかった。ただ、それは突然の死しかほぼ無い。
病気の様に、緩やかな死では大体ない。
突然の死は、自分が死んだことすら分からないままに死ぬのだろうと思う。だが、病死の場合は、自分にじわじわと死が擦り寄ってくる事を感じながら死ぬのだろう。恐怖は後者が圧倒的。どんなに頑張っても後悔が無い状態で死ぬのは出来ないのだろうか?今からだと、どうすれば少しでもその域に近づけるのだろうか?

ただ、病死の場合の方がいい事もある。時間がある事で、自分が大事にしてきた人に別れを告げられる事だ。感謝の言葉だって伝えられる。
amazarashiと言うアーティストの、エンディングテーマと言う曲がある。

是非一度、歌詞だけでも触れてみて欲しい。
お世話になった人たちをエンドロールに並べると、何時間掛かるか分からない…本当にそうだと思う。
出来れば走馬灯は一生分、全部見せて欲しい。
何一つ置いていきたくない。全部思い出は持って行きたい。
最後の望みはそれかな。



自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…