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カミングアウトについて

ryuchellさんが亡くなったそうですね
ご冥福をお祈り申し上げます

小さい時は同性愛と言うのはアンダーグラウンド、タブー、いじめの対象、侮蔑の用語、など多様性の欠片も見当たらない時代だった
ところが、今は多様性の一つとして性の形を画一化するべきでない、となった
私はそれ自体に反対でも賛成でもなく、個人の好みを深堀するつもりもないし、自分と好みが違ったからと言って、何とも思わない
(ここでは騒がれているトイレの問題はさておき)

さて、昭和では情報は紙媒体に限られていたので、求めていなければ情報に行き着く事もなく、アンダーグラウンドの世界にも近づこうとしなければ出来なかった。しかしながら、現代は自分が好まなくても一方的に情報は入ってくる
そして、容易に手に入る情報から仲間がいる事もすぐに分かる
SNSを含めて、それはとても良いことだし、生きるにおいて心強い
例えば、太平洋の真ん中にいてもGPSで近くの船を検索して連絡ができるようなものだと思う
しかし、その為には自分がいると言う情報を出さなくてはいけない
仲間である、と公表しないと相手に受け入れられないと言うことでもある

やましいこと、汚いこと、おかしいこと、では時代と共になくなってきて、認められるが、マイノリティである事実は変わらない
変動期には、まだまだ旧来の感覚が半分は残っていることでもある
人は、意外であればあるほど、そしてセンセーショナルである程、ニュースやゴシップとして取り上げられる
街で歩いてる一般人など誰も興味がないのだ

カミングアウトをする事はとても勇気のあることだと思う
私が性癖を知らない人たちに向けて声高に叫べるのか?と言われたらNOだ
やはり、恥ずかしい、受け入れられず人が離れて行ったら嫌だ、って思う
それでも、自分は自分として明確に「一般的」と呼ばれない宣言をする人たちに敬意を表したい

しかしながら、誰よりも自分らしく社会に訴えるには障害も多い
カミングアウト=認められるではないのだ
犯罪でない限り、認められていくべきではあると思うが、好奇の目に晒される事は本当に辛い

自由を得るためにしたことで得た自由と、そこから生まれる不自由
勇気のない人には与えられない自由と、不自由
自分の人生においても、これらはいつもつきまとっている
どちらかだけを得ることはできない

自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…