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「書くこと」再考

お久しぶりです。大学の課題にじわじわと追われつつあるこむらさきです。

ウヰスキーの記事を早くアップしろよというお声が聞こえてくるような、こないような気がいたしますがしばしお待ちくださいませ…

今回は「書くこと」という行為そのものについて自分の忘備録的な感じでダラダラ書いていきたいと思います。

「書くこと」の難しさ

「書くこと」の難しさについて書いていく前にどうしてこのテーマの記事を書こうか思ったかという経緯から書いていきたいと思います。プロフィール欄からもわかる通り現在、私は大学生という高等遊民であり、大学というサンクチュアリで人類学を主に専攻しています。(一応かい

つまむ程度に経営学も専攻してはいるが…)多くの読者の人類学について馴染みがないと思うので大雑把に説明すると、                      

「人間という生き物は多様で、無限の可能性に溢れているね☆」

ということを研究していく一学問です。(一応、本職で人類学をされている読者の方が読まれていると私も分が悪いので細かく言うと文化人類学を専攻している。)

この人類学と呼ばれている(或いは勝手に人類学と呼ばれているものをやっている者がそう呼んでいる)学問においてもとりわけ文化人類学(細かく言うと一記事書けててしまうのでここでは説明しないが、「文化」という二人以上から構成される特定集団における行為を興味・関心の対象とするものと理解してもらえば大丈夫である)というところにおいては私が今とても悩まされている「書くこと」という行為が重要となってきます。

筆者である私、こむらさき含め皆様の多くが紙に鉛筆でメモをとるないし、スマートフォンなどのデバイスで文字を画面に打ち込むなど方法はされど日々「書くこと」という行為を特段、意識することなくされていることかと思います。こんなことを書くのもなんですが、私自身は決して「書くこと」そのものは嫌いではないですし、引っ込み思案の性格もあってかよっぽど大勢の前でプレゼンをするよりもマイペースでできていいと思っています。このままだとタイトル詐欺にないかねないのでそろそろどうして「書くこと」というごく当たり前の行為が難しいと感じるのかというと

「「書くこと」という自分が抱いた思いや考えを言語にコンバージョンする 行為は必ずしもそれらをオリジナルのコンテキストのまま翻訳するとは限らないし、口語に比べ一言語が抱えることの情報量には限りがある」

という点です。なんか入試の小論文の常用句を並べたかのような理由ですね…

あまり深掘りすると存在論、認識論(例「リンゴ」というモノがそもそも存在していたのか、それともヒトがある特定の物質に対し「リンゴ」として認知したから「リンゴ」が存在するのか)の論争になり、これも一記事が出来るほど書ける内容になってしまうので出来るだけ言及は避けようとは思っていますがこの記事では認知主義の立場で述べていきたいと思います。

人間という生き物は口語にしろ、文語にしろ発信者の抱いた(認知したとも言うべきか)特定の感情ないし考えに対し、言葉というものを付与(ラベリング)することにより初めて他者との口語のみならず、文語においても対話することが出来るようになります。勿論、必ずしも言葉というものを付与しなければ他者と対話を図ることが出来ないかと言ったら決してそういうわけでは無く、赤ん坊が泣くことでお母さんなどにアピールすること、自身の言葉が全く通じない土地で身振り手振りでなんとか相手に伝えようとするなど所謂非言語を用いたコミュニケーション方法がありますが、それは言語のそれに比べて、正確さに欠け、その場でしか機能せず後世に対して伝承することが出来ないため所謂「文明化」された文化においてはあまりメジャーなものではないのは皆さんご存じのことかとは思います。

しかしながら、特定の感情や考えを言語化することは必ずしもいいことであるとは言い切れないとも言えます。特にそれは口語よりも文語、すなわち、「書くこと」という行為において如実に現れてきます。そもそも、特定の感情や考えを言語化というラベリングをする時点でそれらが含有するコンテキストを限定しなければならないのですが、文語にすることにより、より要素を限定する必要が出てきます。ここで人類学の話に一旦戻りましょう。人類学と呼ばれる学問において、人類学者と呼ばれる(斜に構えた)人間が自身の研究を発表する際、エスノグラフィー(民族誌)というものを用いることが殆どです。エスノグラフィーとは特定の集団(遠い海外の少数民族からガード下のホームレスまでと対象となる集団は広い)における生活様式や価値観等を現地の人(インフォーマント)のことを一番知っている(と自負する)フィールドワーカーである人類学者がインフォーマント自身のことばを用いて(解釈してとも言うべきか)紹介する書籍等のことですが、当然、そこにおいて書籍で発表する以上、「書くという」行為から逃れることが出来ません。しかしながら、インフォーマント自身の言葉を用いて紹介するとは言っても、仮にインフォーマントとフィールドワーカーである人類学者の母語が同じであったとしてもインフォーマントの言葉を再構成するという作業を行うというエスノグラフィーの構成における性格がある以上、人類学者自身の言葉で解釈ないしコンバージョンすることは避けれれません。ここで先に出てきた

「「書くこと」という自分が抱いた思いや考えを言語にコンバージョンする 行為は必ずしもそれらをオリジナルのコンテキストのまま翻訳するとは限らないし、口語に比べ文語が抱えることの情報量には限りがある」 

が問題となってきます。(注;ここでの「自分」は筆者である「私」を限定的に意味するものではない)

口語のいい点は、ジェスチャー等の非言語コミュニケーションを組み合わせて言語化したそれをおこなえる点にあるといっても差支えないでしょう。その際、インフォーマントないし人類学者は非言語、言語を駆使することで僅かなニュアンスさえも対話を行う相手に対し、それとなく(絶対とはいかなくとも)伝えることが出来るでしょう。他方でそれら口語でのコミュニケーションをエスノグラフィーという文語にコンバージョンしようとした際にどんなにその人類学者が教養深く、語彙に富んでいたとしてもそれらを再び、口語にコンバージョンするのは読者であり、どこまでできるかは読者に委ねられている点は留意すべきことではあります。また、口語を文語にコンバージョンする際やインフォーマントの言葉を再構成する際にそれらの作業によって取り除かれた情報(所謂、雰囲気や空気感、与太話など筆者である 人類学者が不要と思ったもの)に対しては細心の注意を払う必要があります。

「いかにインフォーマントないし人類学者があるフィールドで抱いた特定の感情や考えを読者に対して正確且つわかりやすくエスノグラフィーを通して伝えることが出来るようにするか」

これこそが「書くこと」という行為を難しくする要因であり、反対に私を駆り立ててくれるものでもあったりします。

なんか、やたらと専門用語を濫用してなんだか申し訳ないですが、そんなわけでさっさと課題の方を終わらせていきたいと思います。


では、また。

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