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掌編小説 「満ちる」

「こうして汚いアパートの階段に、深夜腹ぺこで座ってる世界の方が、まるで安っぽいフィクションみたい」 

本文より

 巨大なモンスターを技を駆使して次々と倒してゆく。自分の体より大きい剣を奮う男の筋肉は隆々と盛り上がり、その全身からはオーラが出ている。七色の輝く光。その殺戮に意味なんてない。ただ、気持ちよくなるために、全能感に浸って恍惚とするためだけに、ゲームの中では絶対悪であるモンスターやゾンビを無心になって殺す。新しいのを買えなくて同じゲームを何度も繰り返してるからすっかり強くなって気持ち良くやっつけることができる。気が付けばすっかり日が暮れて昏くなった部屋でテレビの画面だけが明るい光を放っている。少しでも大きな画面でモンスターをやっつけたくていつもわざわざテレビに繋いでプレイしていた。ああ。腹が減った。
 
 薄い壁を通して隣の部屋の音がする。水を流す音、テレビの音、何かの扉を閉める音。話し声はしない。当たり前だ。だってあいつも一人でいるはずだから。深夜すぎるまで大概一人でいる。二ヶ月前に越してきたアパートの部屋の隣には、入学したばかりの高校のクラスメイト、佐久みかげが母親と住んでいた。

 時計を見る。もうすぐ七時になる。やべ、洗濯物入れるの忘れてた。狭いベランダに出て、とっぷり日の暮れた中でひらひら揺れる俺のTシャツや靴下、パンツ、バスタオルに布巾、そしてばあちゃんの六十すぎにしては派手だろうっていう下着やらを取り込んで、部屋の床に放り投げる。あーめんどくせえ。畳むのめんどくせえ。洗濯とか生活感まるだしで、さっきまでの、あの巨大なモンスターを次々なぎ倒してた力みなぎるハンターの俺とはあまりに違いすぎる。靴下をくるくる丸めながら俺は舌打ちをする。洗濯物を片づけ、風呂を洗ったところで、ばあちゃんが帰ってきた。年齢を考えない派手な服と派手な化粧で。

 ばあちゃんは、駅前の商店街にある昔ながらの化粧品店でずっと働いている。いまどきこんな店で買う人いるんだろうかっていうような専門店だ。それでもばあちゃんに相談して、新商品と言われる化粧品を顔中に塗ってもらって買う人がいる。たくさんはいないけど、いることはいる。だからばあちゃんは給料をもらえて、俺も食べていける。

「はあ~疲れた、足がむくんでしょうがない」
 ただいまも言わずにぶちぶちとそんなことを言いながら、商店街で買ったらしい焼き鳥の袋を俺に差し出す。俺はそれを黙って受け取り、テーブルに皿を出して一本一本入れる。これじゃ足りねえ、と心で思う。ばあちゃんの買う焼き鳥はいつも全部タレだ。俺は塩が好きなんだけど、ばあちゃんに言ったことはない。この年になって孫の面倒見なきゃいけないだけでも悲惨なのに、焼き鳥のタレにまで文句言われたんじゃかわいそすぎる。皿をレンジにいれて温める。インスタントの味噌汁を作るべくティファールで湯を沸かす。タイマーで炊けていた米を百均で買った茶碗によそう。その間にばあちゃんはキッチンから丸見えの和室のふすまを開けっぱなしで着替え始める。
「腰とか膝とか痛くなってマジ嫌になる」
 マジとか使うなよ、マジ気持ち悪いからと心で思いながら俺は箸を並べる。開いたふすまの向こうでストッキングを脱いでいるばあちゃんの骨張った足が見える。
「もうヒールとか辞めたほうがいいのかねえ」
 ばあちゃんはいまだに高いヒールの靴を好む。その方が足がすらりときれいに見えるし、お尻だってきゅっと上がるからだという。三十二歳の時に離婚してから男なんてばかものだと言ってずっと一人で生きてきたばあちゃんが化粧品とかヒールの靴とかを好む理由がよくわからない。っていうようなことを前に言ったら鼻で笑われた。
「男のためにきれいになりたいわけじゃないよ。自分のためだ」
 そういうセリフを前にどっかで聞いたことがある。ああ、まだ親と暮らしていた頃に家族で見ていたテレビで有名な女優が言っていて、母親が共感して父親が馬鹿にしていたセリフに似ているのだ。

 ピンクのスエットの上下に着替えたばあちゃんが、冷蔵庫からビールを出して椅子に座る。いただきますも言わず、ばあちゃんはビールを開け、俺は味噌汁をすする。ゲームの画面で止まったままになっていたテレビをばあちゃんが何も言わずにバラエティ番組に変えた。とたんに賑やかな笑い声が流れ出す。
「馬鹿だねえ、こいつらは。自分の恥を大声で言うことで免罪符でももらった気になってるのかね」
「…めんざいふってなに」
 ばあちゃんが帰ってきてから、俺は初めて声を発したなと思う。
「は?」
「だから、めんざいふでももらった気になってって、どういうこと?」
 俺の目をみつめたばあちゃんの黒目がさっと右斜め上にずれた。あ、目が泳ぐってこんな感じ?
「そんなもの、自分で調べろ。辞書あんだろ」
 今の言い方は、母親そっくりだった。やっぱ親子って似るんだな。母親も年とったらこんな感じなんだろうか。じゃあ俺も?それとも父親みたいになんのか?どっちにしたって最悪だ。マジ厭だ。勘弁してくれ。親みたいになるためにくそおもしろくもない人生を生きてくって、それっていったい何の冗談?

  深夜一時過ぎ。ばあちゃんの鼾が聞こえる。腹が減った。テーブルに置きっぱなしのばあちゃんの財布から千円抜いて部屋を出る。近所のコンビニまで歩いて五分。空には満月には足りない月がぼんやり浮かんでいる。人通りはなく、街灯も暗い。家出少女も、誰でもいいから殺したい人も、猫の影すらも見えない。俺は頭の中でゲームの主人公になったつもりでのしのしと歩いてみる。今、その角から家よりでかいモンスターが出てきたら、と考える。攻撃を回避しながら回転斬り、盾ガードしつつ飛び込み斬りをして、いや、双剣のほうが・・・と考えたところでくだらなくなって苦笑する。
 
 コンビニで弁当を買って戻ると、アパートの外階段の一番上に座って、分厚い本に視線を落とすみかげがいた。アパートの廊下の薄暗い蛍光灯と月の光の下で、じっと本をみつめるみかげを邪魔するのがはばかられて俺は立ち止まった。ページをめくりながら、みかげの口元がふっとゆるんで笑ったような気がして、でも不十分な明るさの下の一瞬で、それは定かではなかった。みかげが俺に気付き、今度は確かに笑みを見せた。階段を上がってゆく。ギッギッと音がする。みかげは階段の隅に寄り、俺は一瞬迷ってみかげの二段下に座った。
「なんで外?」
「酔っ払った母親が絡んできてうざいから」
「ふーん。何読んでるの?」
 みかげは開いたままの本の表紙を俺のほうに見せながら
「百年の孤独」と答えた。本には図書館のシールが貼ってある。
「焼酎じゃん」
「よく知ってるねえ。でもお酒がこの小説から名前とったんだよ」
 みかげはくくくと笑った。
「すげー」
「思ってないでしょ」
「そんな分厚い本読んでるのがすげー」
 栞を挟みながら、みかげは面白そうな顔して言った。
「これさ、もう別世界だよ。時間、場所、常識、まるで違う世界に連れてってくれる。私が信じ込まされてきたこの世界のありようなんて簡単に裏切ってくれる」
 正直、俺にはみかげの言うことがよくわからない。だけどみかげの言葉は気持ちよく俺の頭に滑り込んでくる。もっと聞いていたい。俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、みかげは本から俺に視線を移して微笑んで言った。「こうして汚いアパートの階段に、深夜腹ぺこで座ってる世界の方が、まるで安っぽいフィクションみたい」
 俺はそんなみかげの視線にどきまぎしながら何か言わなきゃと焦っていた。
「それって、俺が、ゲームでモンスターやっつけるのと同じ感覚?」
 みかげが首を傾げる。
「私ゲームしないからわからないなあ」
「全能感に浸れる。俺が正義で、俺が世界を支配してるみたいな」
「あーじゃあちょっと違うかな」
 みかげは眉間に皺を作って考える。
「小説の中で私は消えるの。登場人物だけがいて、自分はきれいさっぱり消え去ってる。主人公になってその世界を生きているのか、世界を支配しようにも、私はどこにもいない」
 腑に落ちない顔の俺にみかげは笑った。
「とにかく、読んでる間は惨めな私が消えるの。生まれた時からハンデ背負わされてる自分の境遇とか、お先真っ暗な未来とか、自分が無力な子どもだってこととか、空腹でひもじいことすら一瞬忘れる」
 俺はみかげの細い顎と首筋を見る。
「食うか」
 思わずコンビニの袋を差し出す。
「え?いいの?本当に?」
  素直に目を輝かせるみかげに何とも言えない気持ちになる。ばあちゃんの財布から取った金で買ったことが情けなく思える。自分の力でこんな嬉しそうな顔をさせたかった。
  ビニールの袋から取り出した弁当を見て、みかげがケラケラ笑った。
「蓋がペコペコになってる」
「店員が新人であっためすぎたんだよ」
 みかげは嬉しそうにその蓋を開けると、冷めかけたしょぼいコンビニ弁当をコース料理でも食うみたいにおいしそうに食べた。黙々と食べ続け、お新香や温められてしなびたレタスまできれいに食べて箸を置く。
「あーお腹いっぱい!満たされました!ご馳走さま」
 空の弁当箱を袋に入れながらみかげは言う。
「ご飯はお腹を満たして、体を温めて、力をくれるね」
 気のせいか、先ほどより少し赤みの差した頬をしてみかげは話し続けた。「今思ったんだけど、小説ってお腹の代わりに穴だらけでスースーしてる心を一瞬満たしてくれるのかも。たとえそれが自分には関係ない、どこにもいない誰かの物語でも、今日とは違う世界があるのかもしれないって想像する力をくれる。そんなのあるわけないって思いながら、やっぱり信じたい気持ちもあって。それは、あと一日だけ生きてみようって思う力になる。それを繰り返して、繋いで生きてる感じ?」
 言い終わってみかげは急に恥ずかしそうな顔をして立ち上がった。片手に分厚い本を、片手に空の弁当を入れた袋をもったまま「うーん」と大きく伸びをして気持ちよさそうに呟く。
「あー今日はお弁当をもらえて幸せだった。昨日諦めて終わりにしないでよかった」
 そんなみかげを見ている俺の中に訳のわからない苛立ちが沸き上がってくる。うわあと叫びたいような苛立ちだ。
 俺は、どんなに頑張っても本当のモンスターは倒せないから。本当は、ばあちゃんを助けたり、みかげを喜ばせたりできる人間になりたい。でもそのためにどうしたらいいのか全然わかんなくて、今は苛立ちしか生まれない。いろんなことに腹がたって、むかついて、でも一体誰を倒せばいいのかもわからない。誰に文句言えばいいのかもわからない。文句言ったって何も変わらないってことしかわからない。そんな自分にも腹が立つ。だけど、それでも、と思う。沸々としたこの思いは悪くない、きっと悪くはない。だって今、俺の中の空っぽだった何かは満たされている。たとえそれが自分の無力さに対する苛立ちで満ちているだけだとしても、空っぽよりはマシな気がする。俺はみかげの横顔をじっとみつめた。
ぎゅるるるるるっ
すごい音を立てて鳴ったのは俺の腹だ。ぶはっと吹き出すようにみかげが笑う。
「ごめーん、育ちざかりの男子の夜食奪っちゃって」
 謝りながらも笑いが止まらないみかげを見る自分の顔が赤いのがわかる。なんだよ、なんかちょっといい感じだと思ったのに台無し。つまんない気持ちになったけど、ツボにはまったのか涙を流して笑い転げているみかげを見ていたら、まあいっか、って思えてきた。だってみかげがめちゃくちゃ楽しそうに笑ってる。俺がみかげを笑わせたんだ。

「ちょっとぉ、うっさいよ、みかげ!なにしてんのよー早く帰ってきな。ママを一人にしないでよっ。寂しいじゃんかぁ」
 突然階段の上の部屋のドアが開き、みかげの母親の酔って乱れて甘えた声が降ってきた。みかげの笑いはぴたっと止まった。笑いすぎて流した涙を指でぬぐいながら、みかげは俺に向かって小さく微笑んだ。
「今行く」
 母親に向かってよく通る落ち着いた声でそう返してから、俺には聞こえないくらい小さな声で「ありがと」と囁いた。立ち上がり、ギッギッと音を立てながら階段を登ってゆく細い背中を見送っていると、俺の中に満ちていた何かが、パンクしたタイヤから出る空気みたいにプシューと音を立てて抜けて行く気がした。さっきまでの、何だかわからないけど一瞬満ちていると感じたものが、あっという間にしぼんでしまったようだった。
 だけど俺は空っぽを抱えて胸を張ってみせる。深夜のぼろいアパートの外階段で。自分の体より大きな剣も隆々とした筋肉も七色に光るオーラも何もない俺は、倒すべき絶対悪の姿さえわからないまま、空っぽの両手をぎゅっと握りしめて、足に力を入れて仁王立ちして昏い空を見上げた。目を瞑る。

今日とは違う世界があるかもしれないって想像する力が、あと一日だけ生きてみようって思う力になる。それを繰り返して、繋いで生きてる。

みかげの落ち着いたよく通る心地よい声が耳の奥で響く。
悪くない。沸々としたこの思いは悪くない、きっと悪くはない。
俺はゆっくり目を開けて、目の前に広がるこの世界を眺めた。

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