がらくたの家 3 (小説)
家に帰ると居間のソファに七海が横になっていた。
「おかえり」
二人を迎えた祐生はすぐにお昼にするからと慌しく台所に戻っていく。
七海は目を閉じておでこに濡らしたタオルを載せて寝転がったままだ。
手を洗い居間のテーブルについた凛は、氷がのったそうめんのガラス皿を持って入ってきた祐生に小声で尋ねた。
「七海さん、どうかしたんですか?」
祐生は「大丈夫、いつものことだから」と応える。
「仕事したから疲れてるだけ。大丈夫」と。
そういえば家に入ったとたん、昨日以上に甘い香りが漂ってきた。あれはアロマの匂いなのだ、と凛は気づく。マッサージってそんなに疲れるんだ、と軽い寝息をたてている七海を見る。
そこに刈谷が二階から降りてきた。
「あれ、お父さん、絵うまくいかないの?」
大志が心配そうに聞くと刈谷は笑って
「今日はだめだなあ。午後は大志と遊ぶことにした」と言う。
うまくいってる時は昼にも降りてこないほど集中しているのだろう。大志は心配と嬉しさの入り混じった声で「本当?」と聞く。
「本当だよ」と応える刈谷の表情は、クールで無口な最初の印象とは違って優しいお父さんのものだった。
眠る七海以外の四人で、蝉の声を聞きながらそうめんと天ぷらを食べた。
時々、大志と刈谷が話をした。
「今日は売れなかったよ」
「そうか」
「大人がいないから怪しまれたよ」
「大丈夫だったか」
「うまく逃れたよ」
「さすがだな」
言葉数は多くないけれど二人とも楽しそうで、祐生が時々素っ頓狂な相槌を入れたりもして、時間は意外にも心地よく和やかに過ぎた。
午後、大志と刈谷が出かけてしまうと、凛は居間のテーブルで夏休みの宿題をした。このまま退学しようと決めてるわけでも、大学進学をあきらめたわけでもなかった。ただ学校に行きたくないだけで落ちこぼれたくはないのだ。だから中途半端に勉強をする。自分がただの小心者のようで情けない気持ちになりながら凛は問題集のページをめくる。
三時半を過ぎた頃になってようやくソファから七海が起き上がった。祐生が持ってきた温かいお茶を飲んで、ぼんやりした顔でソファに座っている。
凛は声をかけるのもためらわれて、引き続き宿題に集中することにした。
「あれ、凛ちゃんいたの」
七海がびっくりしたように言ったのはそれから一時間も過ぎてからだった。
「ずっと、いたけど…」
凛は憮然とする。
「ごめんごめん」
と笑う七海はやっといつもの調子を取り戻したようだった。
「おなかすいたなあ、夜ご飯待てないなあ」
七海が言ってるところに祐生がゆでたとうもろこしを持ってくる。
「そろそろ食欲でてきた頃かなと思って」
「さすが祐生」
「凛ちゃんも食べる?」
ゆでたてのとうもろこしからはいい匂いが漂ってきて、その鮮やかな黄色を見ると「食べる!」と言わずにはいられない。宿題をテーブル脇によけて、三人でとうもろこしを齧る。
「甘っ!」
凛はつい声に出してしまう。それくらい自然な甘みがおいしくて今までに食べたとうもろこしとは全然違う気がした。
「でしょう?有機で丁寧に愛情こめて作られたとうもろこしだからね」
嬉しそうな祐生に「野菜どこで買ってるんですか?いつもすごく新鮮な気がする」と凛が聞くと祐生は誇らしげに「僕が作ってるんだ」と言った。
近くの土地を借りて家庭菜園をしていると言う。
「季節の野菜を色々ね。今はとうもろこしでしょ、オクラでしょ、トマトにきゅうりもできてる。秋にはおいもとかナスとか、今から楽しみ」
祐生は嬉しそうに話す。
「祐生さんって本当に家庭的ですね」
凛は最高に褒めたつもりでそう言ったのだが、祐生は少し悲しそうな顔をした。
「やっぱり僕、男らしくないよね。治そうと思ってるんだけど」
小さな声でそういう祐生に凛は戸惑う。
「治すって何を?優しいし気が利くし、見習わなきゃいけないところはあっても治すところなんてなさそう」
不思議そうに聞く凛に、祐生はぱっと表情を明るくした。
「ありがとう、凛ちゃん」
目を潤ませる祐生に七海がとうもろこしを食べ終えて言う。
「そうだよ、祐生は別に今のままでいい。誰も困らない、むしろ喜ばれてる」
祐生は頷いてそして涙を拭くのをごまかすように立ち上がって台所に行ってしまった。
「何か…ごめんなさい」
凛が謝ると七海は「謝ることないよ、問題なしっていうかむしろありがとう」と言った。
「祐生は、もっと男らしくなりたいと思ってるの。結婚して家庭を持ちたくて、でも自信がなくてなかなか女性とつきあえなくて、時々あんなふうに落ち込んじゃう。祐生ほど素敵な結婚相手いないと思うんだけどね。見る目のない女の人が多すぎる」
凛は首を傾げる。
「七海さんが祐生さんと結婚すればいいのに」
七海が心底びっくりしたという顔をする。
「ええ?あ、そうか。そんなこと考えても見なかった。私も見る目がないのか。でも祐生の好みもあるからね」
七海はそう言うと笑って「あーびっくりした」とまた言った。
🏡
次の日、暑さのせいで早起きした凛は、朝ご飯を食べてすぐ祐生が畑に行くというのにつきあうことにした。凛と祐生が家を出ようとしたとき、朝早いというのにまた刈谷がやってきた。昨日はあれから大志と一緒に映画を見て、おもちゃ屋さんに行って、夕飯を食べたと言い「今度は遊園地のお化け屋敷に行く約束しましたよ」と困ったような顔をしてでも嬉しそうに笑う。アトリエにあがっていく刈谷を見送って、凛と祐生は外へ出た。
祐生が野菜を作っている場所は歩いて十分くらいのところにあるという。首にタオルをかけた作業着姿の祐生と並んで歩きながら、凛は不思議な気持ちになる。ここに来るまで、この夏休みは自分一人で東京の街を歩き回って、吉祥寺はもちろん渋谷も新宿も表参道もお台場も制覇しようと決めていた。
東京を歩くだけでも緊張するのに、一人で映画を見るとか、一人でカフェに入るとか、そんな高いハードルを設定していた。そのための下準備もネットや雑誌を使って十分してきたのだ。そうした夏休みを過ごすことで大人になれるような気がしていた。一人で行動できる自分、しかも東京で。そして、そんなふうに過ごしていれば、自分にも美晴のような何かがみつかるんじゃないかという期待があった。生まれたときから暮らす長野の家と街と学校の生活ではみつからなかった何かが。
それなのに、ここに来てから七海や祐生やあの家に出入りする人たちと過ごしてばかりいる。寝るとき以外一人になる時間すらほとんどない。そして、それがどういうわけか嫌ではないのだ。今日だって祐生はただ「畑行くけど」と言っただけだから来る必要なんてなかった。なのに東京で畑仕事なんてと思いながらいい天気につられるように出てきてしまった。
「ほら、これ被ってね」
祐生が渡したのは麦藁帽子だった。
「えーこんなのかっこわるい、やだ」という凛に祐生は「熱中症になってもいいの?誰もいないんだからかっこわるくても問題なし!」と言って結局被せられてしまった。六分丈の綿パンにTシャツ、頭には麦藁帽子で首にはタオル(これも祐生に巻かれた)、仕上げに軍手をはめ全身に虫除けスプレーをかけられて、やっとのことで凛は畑に立った。
畑は思ったよりも大きかった。住宅街の中、五十メートルプールくらいのぽっかりと空いた土地に様々な種類の野菜が育っている。
「この土地持っている人が半分は作ってるんだけどね、もうお年よりだから一人じゃ全部は世話できないって、安く貸してくれてるの。まあ助け合って育ててる感じかな」
そう言う祐生に続いて、凛は草取りを始めた。
「梅雨に雨がしっかり降って夏がこれだけ暑いと雑草の生える早さが半端じゃなくて、取っても取ってもすぐ生えてくるの。除草剤とか使ってないから仕方ないんだけどね」
すでに汗だくになった祐生が言うとおり、畑にはたくさんの雑草が勢いよく生えている。
「二週間前に取ったばかりなんだけど」
ぶつぶつ言いながら祐生は素早く雑草を抜いて進んでいく。隣の列にいる凛はうまく根が抜けなかったりしてなかなか進まない。朝の八時にもならないというのに、陽の強さに凛は驚く。
「腰痛くなってきたー」
二十分もしないで言い出す凛に祐生はあきれた声を出す。
「運動不足なんじゃないの?若いのに」
それでも凛は草を取り続けた。汗がだくだく流れて顔が火照って、軍手をした手が土で真っ黒になった。それでも凛はだんだんとその作業が楽しくなってきた。
きれいになった地面とまだ雑草の生えた地面との境目にしゃがみ込んでひたすら草を抜いてゆく単純作業だったけれど、自分が手を動かしたことが目に見える成果となってすぐそこに現れるのは気持ちよかった。そのうちむきになって、絶対この列はきれいにするぞと思い、その列が終われば次の列まではと思って、どうにかして全部終わらせたいと思っている自分に気づいたころ、祐生が大きな声で叫んだ。
「休憩~」
凛は顔をあげて腰を伸ばした。うーんと伸びをすると縮こまっていた腰が伸びて気持ちよかった。二人は畑の横においてあるベンチに腰掛け、祐生が水筒からいつもの麦茶をカップに注ぐ。三杯も飲み干して凛はほっと息をつく。
二人はぼんやりと畑を眺めた。濃い緑と土の匂いが満ちている。畑の上をモンシロチョウが数匹ひらひらと飛び交っている。足元を大きな蟻が何か抱えて歩いている。日差しはどんどん強くはっきりとしたものになってゆく。
そんな景色の中にいて、ふと凛はアトリエにこもる刈谷を思った。せっかくのこんな夏の日の週末に部屋に籠もって絵を描く刈谷の気持ちを思った。
真面目でとっつきにくいイメージは消えていたけれど、真夏の朝から部屋でキャンバスに向かい続ける刈谷と物分りのいい大志を思うと、やはり寂しい気がしてしまう。
「刈谷さんは」
凛はつい口に出す。
うん?という顔で祐生が凛の顔を覗き込むように見た。
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