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二束三文という言葉の由来は?江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』中巻を訳してみた~第5回(全6回)
前回の第4回では、ようやく登場した仏像関連「大津絵の仏像」を主とした、山東京伝の考証となっていました。今回は「二束三文」という言葉の由来や「三味線」の発祥について、さらに、今までの回にもチョイチョイ見かけた「紫革の足袋」というものが取り上げられ、その実態がやっとここで判明します。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)
1.重箱硯蓋
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77680768/picture_pc_d6c523cf7277aa59c4c355958147e330.jpg?width=800)
ある書に「重箱は慶長の間、重である食篭※
に基づいて初めて作られた」とあるが、
そうは思えない。
※食篭=ふた付きの食物を入れる容器
考えるに、重箱は衝重 ※が変化したものでは
ないか。衝重の使われ方が変わって縁高
となり、縁高の足を取って重ねたものが、
重箱というようになったのはないかと思う。
※衝重=食器を乗せる膳具
※縁高=菓子等を盛る縁の高い方盆
昔は、重箱に肴物を入れ、松の折枝などを
飾ることを衝重で行い、肴物を入れる際の
飾りを省略していったのではないだろうか。
衝重も結局、重ねて置けるのだから、そのまま
重ねという名が残ったのだろう。
ただし、食篭の名は重箱より少し古いようだ。
(昔の食篭はどんな物を篭に編んだのだろうか)
『下学集』(文安)には「衝重、縁高、食篭」
の名があるのに、重箱はない。
『尺素往来』(文明)にも、食篭はあるが重箱は
ないので、知りたいと思う。
先のある書には、重箱は慶長期間に初めて
作られたというのに疑問を持つ訳は、既に
文亀の本『饅頭屋節用』に、重箱という
名が見えるからである。なお、古くは
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77708372/picture_pc_968a4ba28ab62fbba109ef743260d7f4.jpg?width=800)
狂言の菊の花に
「時に腰元※がまず盃を持って出ました。
何でも一つ食べると存じていましたが、
つつと脇へ持っていきました。また、その次に
結構な蒔絵の重箱にいろいろな肴を入れて
持って出ました」とある。
※腰元=貴人の近くで雑用をこなす侍女
また、鈍根草という狂言に
「宿坊から重の内が参りました」という
台詞もある。
※鈍根草=ミョウガ
狂言が古いものだということは、前にも度々
言っている通り。
さて、寛永頃から元禄頃までの古画や印本の絵
などを参考にすると、酒宴に肴を盛る器は
すべて重箱である。
松桧草花などの掻敷※をして盛り、
食篭・鉢などに盛ることは珍しかった。
※掻敷=器に食べ物を盛る時に下に敷くもの
今の硯蓋というものはごく近年になって
作り出されたのだろう。古い絵には見られない。
元禄十七年印本の絵には
重箱があるが、硯箱はないのだ。
しかし、『卵子酒』(宝永六年作、享保七年板)
の絵には硯蓋があり、重箱も描かれている。
その後の『自笑の草紙』(宝永七年板)の絵には
硯蓋だけがあって重箱はない。
これより後の、西川祐信の描いた印本の絵などを
たくさん見ると、硯蓋だけがあって重箱はない。
これらを総括すると、重箱に肴を盛ることは
元禄末に廃れて、硯蓋に盛るようになったのは、
宝永期間中に始まったものと思われる。
ただし、硯箱の蓋に果物などを乗せることは
古い記録や歌集などで見られていた。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77723386/picture_pc_c858ae4d6bbc9bfcc04feaef4739c6fd.jpg?width=800)
『山の井』(慶安元年印本)巻の五
新黒谷※の花見ことを語るくだりには
「美しい硯箱のような物の蓋に果物を入れて、
若い者にお香のような何とも言えない
良い匂いを立ち上がらせた」とあるので、
古い物語の風体を真似したものと思われる。
※新黒谷=京都市左京区の金戒光明寺のこと
近世で物好きな人が、昔の果物を盛ったことに
基づいて、硯箱の蓋に肴を盛ったのが始まりと
なり、ついに硯蓋という器物のひとつに
なったのではないか。
けれど、硯蓋は正式なものではないので、今、
民家で正月のお屠蘇の肴を重箱に盛るのは、
宝永以前の古式の名残なのだろう。
『三疋猿』(支考撰、上梓の年号なし。
推測するに宝永頃と思われる。著作堂蔵本)
<附合の句>菊の香に 菓子とりまぜて 硯蓋
硯蓋に菓子を盛ることは、最近ではここに
見られる。
『本朝諸士百家記』(宝永五年印本)巻の五
「何度も取り繕ってのもてなし。硯蓋に干菓子
うず高く盛って、結び熨斗ふさふさとして
毛延び足るは」ここにもこう書かれている。
硯蓋に干菓子を盛るということは、昔、果物を
盛った名残だろう。
ともかくも、肴を盛るひとつの器物となった
のは、宝永以後のことである。今さまざまな
形に作り変わられ
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77734138/picture_pc_0bba5d9b4b65e9660117de555a62b5ef.jpg?width=800)
硯蓋と呼ばれるようになり、
元を失ってしまったようだ。
2.二足三文
今、物の値段が安いことを二足三文(二束三文)
ということわざがあるが、元は金剛の価から
きたものだそうだ。
『きのふけふの物語』(刻梓の年号はないが、
寛永の書と定めるべき証拠がある。杏花園蔵本)
下の巻に「金剛は二そく三文するものを」という
狂歌が載っているが、金剛は草履の類である。
藺金剛・藁金剛・板金剛など数々あり。
3.三線鼓弓の古製
『松の葉』(元禄十六年板)に永禄頃、琉球から
蛇皮二絃の楽器を弾く泉州堺の琵琶法師、中小路
という者が来て、一絃増やして三絃にし、世に
さみせん(三味線)と呼び、寛永に至って
盛んに使われるようになったとある。
次項に描いたものは、寛永・正保頃の
古図である。永禄から寛永に至るまで、
わずか六十年しか経っていないので、
古い形を知ることができ、
今とは大きく異なる。
いつからか古近江という名匠が出て来て、
今の形に作り変えたのだそうだ。
鼓弓(胡弓)の古製も次項に描いたので
見てほしい。
元は歌い手を主とし、三味線は伴奏だけで、
今のように弾く、手の激しいものではなかった。
そのため、撥の形も今とは異なる。
元琵琶法師の手で作られたものとなれば、
うなずけるだろう。
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77742309/picture_pc_8ab34b6b1d4d2aad979f4038ea24bb95.jpg?width=800)
<上段>
寛永・正保頃の古画。
三味線の古い形を見るべし。
美少年の姿。
海老尾の形が琵琶に似ているのは
今とは大きく異なる。
<下段>
万治期間の印本。
東海道名所記所載。
万治頃もこうした形である。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77742679/picture_pc_26bee4796ed69926af9fd248cc56243e.jpg?width=800)
<上段>
寛永頃の古画の中から抜き出して写したもの。
撥の形は幅が狭く、今とは大きく異なる。
後に幅広くなり、古い撥は不要のものとなった。
そのため、女性は笄※の代わりにして
頭に挿したという説があるから、
それも考えられるだろう。
※笄=髪飾りの一種
<中段>
寛永・正保頃の古画。
胡弓の古い形を見てほしい。
胴は丸く、弓は短小で、
今とは大きく異なっている。
和漢三才図絵に「胡弓は南蛮より始まる」
とあり、この図の古い形は蛮絃に近い。
<下段>
根緒※先に鐶がついている。
これも今とは異なる。盲人は撥に糸をつけて
この鐶に結びつけ使うらしい。
昔の素朴さを思うべし。
※根緒=三味線の絃を結ぶ組紐
4.紫革足袋
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77745554/picture_pc_0c40231c56f67e53f68568321b3c813c.jpg?width=800)
『和名妙』には
「今案ずるに、野人鹿の皮を以って半靴を為し、
名づけて多鼻という。この単皮の二字を用ゆ
宜しくべきか」とあれば、
足袋は革で作られたのがもとである。
昔(応仁前後を指す)は貴賤男女みな革足袋を
はいていた。文禄頃の古画を見ると、小桜の紋の
ついた革足袋をはいた男子がいて、紫革の足袋は
女子に限られていた。
『室町殿日記』十の巻、奥方の使われる品々を
申し出てもらう注文の中に
「一 紫足袋、紐は韓紅、内御付候て 十足」
とあるが、これは天文頃のことであり、当時は
身分の高い女性も、紫革の足袋をはいていた
と思われる。
『獨語』には「自分の親しい人の中に、
慶長・元和頃に生れた者が男女ともにいて、
寛永頃に成人したと言っているが、
男性は冬革の打掛・革の袴が格好いいとされ、
女性は紫革の襪子※をはくのを
おしゃれとされた。その襪子は自分の幼い時
(天和頃を指す)までも残っていた」とある。
※襪子=足袋、靴下
また、『尤之双紙』(慶長二年印本)上の巻、
紫の物の品々をいうくだりに「女児がひとり
いたが、紫鹿子の小袖着て、薄紫のくくし帯※、
紫足袋をはいていた」とあり、寛永・慶安頃は
※くくし帯=絞り染めの帯
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77750200/picture_pc_a01bfbb4fde717dd4c814b754a9c88df.jpg?width=800)
紫足袋がもっぱら使われていたと思われる。
しかし『都風俗鑑』(延宝九年板、杏花堂蔵本)
巻の二に「足袋は白革で、紫足袋をはく者は
ちょっと気の利かぬ御方だ」とある。
『あかし物語』(一名女五経、延宝九年板)には
「足袋は白なめしが良い。紫はむさくるしい」
とあるので、延宝頃に至っては紫足袋はやや
廃れたのだろうか。
貞享三年の印本に、老女のことをいうところで
「苧桶※の底から紅の織紐をつけた
紫の革足袋一足、次々の珠数袋」
※苧桶=麻糸を績 み溜めておく円桶
『西鶴織留』(貞享頃の著述、正徳二年印本)
巻の一、ある老女が自分の若い時のことを語る
くだりに「自分たちも普段は、花色染めの木綿の
着物に、紬の帯一筋でおしゃれして、嫁取り
振る舞いの時も、浅葱にちらし菊の絹の物、
朱珍※の帯、紫の革足袋で華やかに着飾った」
とあるので、貞享頃に至っては、紫足袋を
はくものがいなかったわけではない。
※朱珍=厚地の絹織物
『我衣』には足袋のことをいうところで
「寛文頃まで、女性は紫革などで作り、
筒の長い白革・浅葱革もあった。
紐は白繻子※を白綸子にし、
一足で一年も二年もすり切れるまではいた。
天和頃から木綿の畦さしの足袋が流行った」
※繻子=織物組織( 三原組織 )の一つ
※綸子=絹織物の一種
今いろいろ参考にすると、紫足袋は天文頃から
寛永・慶安頃まで使われ、延宝・天和頃には
廃れてしまったようだ。
『翁草』巻の五に
![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77818585/picture_pc_47b2059f223315945c37d9eda7b460de.jpg?width=800)
昔は男女ともに、革足袋が使われた。
明暦以降は革の価値が高くなったので、
木綿足袋をはくようになった」とある。
しかし『ねずみ物語』(寛永二十年印本)には
裕福な者のことをいうところで
「高麗刺しの木綿足袋、頤頭巾※で顔隠し」
とあれば、寛永頃も木綿足袋が
なかったわけではない。
※頤頭巾=あごのところで紐でとめる頭巾
5.丸づくしの文様
慶安から万治・寛文頃の女性の衣服に
丸尽しの文様が見られる。
『山の井』(慶安元年刻)
「秋の野の にしきの露や 丸づくし」
『崑山集』(慶安四年撰、明暦二年刻)
「花々に うつる日影や 丸づくし」
『新続犬筑波集』
「影うつる 田毎の月や 丸づくし」
これらの句が証拠となるだろう。
![画像12](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77820036/picture_pc_4c89caf828f96eb416d542cbdd9d298c.jpg?width=800)
万治・寛文頃を最盛期に時が経ち、
江戸・三浦屋の名妓薄雲が亡くなったあと、
彼女の着ていた小袖を打敷※に作り変え、
出生地信州鼠宿のある寺に寄付したそうだが、
今もあったらよいなあと思う。
※打敷=仏教の寺院や仏壇に飾る荘厳具の一種
ある人がその文様を二つ写してくれたので
次にように描いてみた。
これもまた万治・寛文頃に丸づくしの文様が
あったという一証だろう。
地は緋の綸子。紋は紗綾形。
総文様は丸の中にいろは四十八文字。
さらに一二三の数字も有り。
丸のところは白く染め抜き。
文字は黒紫・萌黄などの色糸を使って
縫ってある。
丸の周りの縁は金糸が使われ、
丸に大小の違いがある。
![画像13](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77821765/picture_pc_c31bb69115c9dfac48a02ce5fd3fee58.jpg?width=800)
<丸尽文様雛形二種>
寛文六年印本、新撰雛形所載。
瓢水子浅井了意の序あり。
![画像14](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77845745/picture_pc_e7518b8b8b2333ff580d54844323b3aa.jpg?width=800)
同じく<丸尽文様雛形二種>
先程の打敷とこの雛形が合致することから、
当時の流行を知るべし。
天和・貞享頃の印本、『女重宝記』というものの
一の巻に「友禅染の丸づくし」とあり、
それも一証とすべし。
【たまむしのあとがき】
「紫革の足袋」ですが、革の足袋って蒸れないの?とすごく気になっていました。
ですが、今でも高級品というだけで普通に売っているようですし、裏地をつけるので、表面だけが革だから、特段問題もないようです。
さすが革足袋、見た目も高そうなお品で、見たことのない世界でした。
単純に自分が知らないというだけだったようです。
こうして歴史に触れていくと、むしろ知っていることのほうがはるかに少ない・・・というより、ほぼ全部知らないこと、といってもいいくらいです。
ところで、「二束三文」の項のタイトルが「二足三文」となっていますよね。
これは書き誤りではないのです。
本文の説明通り、もとは安い草履のことを指していたので、「二足三文」だったのです。
では、そのまま「足」でいいじゃないかと思うのですが、なぜ「束」になったのかについては不明です。
尻切れトンボのようで気持ち悪いですが、仕方ありませんね。
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