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二束三文という言葉の由来は?江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』中巻を訳してみた~第5回(全6回)

前回の第4回では、ようやく登場した仏像関連「大津絵の仏像」を主とした、山東京伝の考証となっていました。今回は「二束三文」という言葉の由来や「三味線」の発祥について、さらに、今までの回にもチョイチョイ見かけた「紫革の足袋」というものが取り上げられ、その実態がやっとここで判明します。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

1.重箱硯蓋すずりふた

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ある書に「重箱は慶長の間、重である食篭じきろう
に基づいて初めて作られた」とあるが、
そうは思えない。

 ※食篭=ふた付きの食物を入れる容器

考えるに、重箱は衝重 ついがさね※が変化したものでは
ないか。衝重の使われ方が変わって縁高ふちだか
となり、縁高の足を取って重ねたものが、
重箱というようになったのはないかと思う。

 ※衝重=食器を乗せる膳具
 ※縁高=菓子等を盛る縁の高い方盆

昔は、重箱に肴物を入れ、松の折枝などを
飾ることを衝重で行い、肴物を入れる際の
飾りを省略していったのではないだろうか。

衝重も結局、重ねて置けるのだから、そのまま
重ねという名が残ったのだろう。

ただし、食篭の名は重箱より少し古いようだ。

(昔の食篭はどんな物を篭に編んだのだろうか)

『下学集』(文安)には「衝重、縁高、食篭」
の名があるのに、重箱はない。

『尺素往来』(文明)にも、食篭はあるが重箱は
ないので、知りたいと思う。

先のある書には、重箱は慶長期間に初めて
作られたというのに疑問を持つ訳は、既に
文亀の本『饅頭屋節用』に、重箱という
名が見えるからである。なお、古くは

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狂言の菊の花に
「時に腰元※がまず盃を持って出ました。
何でも一つ食べると存じていましたが、
つつと脇へ持っていきました。また、その次に
結構な蒔絵の重箱にいろいろな肴を入れて
持って出ました」とある。

 ※腰元=貴人の近くで雑用をこなす侍女

また、鈍根草どんこんそうという狂言に
「宿坊から重の内が参りました」という
台詞もある。
 
 ※鈍根草=ミョウガ

狂言が古いものだということは、前にも度々
言っている通り。

さて、寛永頃から元禄頃までの古画や印本の絵
などを参考にすると、酒宴に肴を盛る器は
すべて重箱である。

松桧草花などの掻敷かいしき※をして盛り、
食篭じきろう・鉢などに盛ることは珍しかった。

 ※掻敷=器に食べ物を盛る時に下に敷くもの

今の硯蓋すずりぶたというものはごく近年になって
作り出されたのだろう。古い絵には見られない。
元禄十七年印本の絵には
重箱があるが、硯箱はないのだ。

しかし、『卵子酒』(宝永六年作、享保七年板)
の絵には硯蓋があり、重箱も描かれている。

その後の『自笑の草紙』(宝永七年板)の絵には
硯蓋だけがあって重箱はない。

これより後の、西川祐信の描いた印本の絵などを
たくさん見ると、硯蓋だけがあって重箱はない。

これらを総括すると、重箱に肴を盛ることは
元禄末に廃れて、硯蓋に盛るようになったのは、
宝永期間中に始まったものと思われる。

ただし、硯箱の蓋に果物などを乗せることは
古い記録や歌集などで見られていた。

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『山の井』(慶安元年印本)巻の五
新黒谷※の花見ことを語るくだりには
「美しい硯箱のような物の蓋に果物を入れて、
若い者にお香のような何とも言えない
良い匂いを立ち上がらせた」とあるので、
古い物語の風体を真似したものと思われる。

 ※新黒谷=京都市左京区の金戒光明寺のこと

近世で物好きな人が、昔の果物を盛ったことに
基づいて、硯箱の蓋に肴を盛ったのが始まりと
なり、ついに硯蓋という器物のひとつに
なったのではないか。

けれど、硯蓋は正式なものではないので、今、
民家で正月のお屠蘇とその肴を重箱に盛るのは、
宝永以前の古式の名残なのだろう。

『三疋猿』(支考撰、上梓の年号なし。
推測するに宝永頃と思われる。著作堂蔵本)
<附合の句>菊の香に 菓子とりまぜて 硯蓋

硯蓋に菓子を盛ることは、最近ではここに
見られる。

『本朝諸士百家記』(宝永五年印本)巻の五
「何度も取り繕ってのもてなし。硯蓋に干菓子
うず高く盛って、結び熨斗のしふさふさとして
毛延び足るは」ここにもこう書かれている。

硯蓋に干菓子を盛るということは、昔、果物を
盛った名残だろう。

ともかくも、肴を盛るひとつの器物となった
のは、宝永以後のことである。今さまざまな
形に作り変わられ

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硯蓋すずりぶたと呼ばれるようになり、
元を失ってしまったようだ。

2.二足三文にそくさんもん

今、物の値段が安いことを二足三文(二束三文)
ということわざがあるが、元は金剛の価から
きたものだそうだ。

『きのふけふの物語』(刻梓の年号はないが、
寛永の書と定めるべき証拠がある。杏花園蔵本)
下の巻に「金剛は二そく三文するものを」という
狂歌が載っているが、金剛は草履の類である。
金剛・藁金剛・板金剛など数々あり。

3.三線鼓弓の古製

『松の葉』(元禄十六年板)に永禄頃、琉球から
蛇皮二絃の楽器を弾く泉州堺の琵琶法師、中小路
という者が来て、一絃増やして三絃にし、世に
さみせん(三味線)と呼び、寛永に至って
盛んに使われるようになったとある。

次項に描いたものは、寛永・正保頃の
古図である。永禄から寛永に至るまで、
わずか六十年しか経っていないので、
古い形を知ることができ、
今とは大きく異なる。

いつからか古近江という名匠が出て来て、
今の形に作り変えたのだそうだ。

鼓弓(胡弓)の古製も次項に描いたので
見てほしい。

元は歌い手を主とし、三味線は伴奏だけで、
今のように弾く、手の激しいものではなかった。
そのため、ばちの形も今とは異なる。
元琵琶法師の手で作られたものとなれば、
うなずけるだろう。

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<上段>

寛永・正保頃の古画。
三味線の古い形を見るべし。
美少年の姿。

海老尾の形が琵琶に似ているのは
今とは大きく異なる。

<下段>

万治期間の印本。
東海道名所記所載。

万治頃もこうした形である。

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<上段>

寛永頃の古画の中から抜き出して写したもの。

ばちの形は幅が狭く、今とは大きく異なる。
後に幅広くなり、古い撥は不要のものとなった。
そのため、女性はこうがい※の代わりにして
頭に挿したという説があるから、
それも考えられるだろう。

 ※笄=髪飾りの一種

<中段>

寛永・正保頃の古画。

胡弓の古い形を見てほしい。
胴は丸く、弓は短小で、
今とは大きく異なっている。
和漢三才図絵に「胡弓は南蛮より始まる」
とあり、この図の古い形は蛮絃に近い。

<下段>

根緒ねお※先にかんがついている。
これも今とは異なる。盲人は撥に糸をつけて
この鐶に結びつけ使うらしい。
昔の素朴さを思うべし。

 ※根緒=三味線の絃を結ぶ組紐

4.紫革足袋

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『和名妙』には
「今案ずるに、野人鹿の皮を以って半靴を為し、
名づけて多鼻たびという。この単皮たびの二字を用ゆ
宜しくべきか」とあれば、
足袋は革で作られたのがもとである。

昔(応仁前後を指す)は貴賤男女みな革足袋を
はいていた。文禄頃の古画を見ると、小桜の紋の
ついた革足袋をはいた男子がいて、紫革の足袋は
女子に限られていた。

『室町殿日記』十の巻、奥方の使われる品々を
申し出てもらう注文の中に
「一 紫足袋、紐は韓紅、内御付候て 十足」
とあるが、これは天文頃のことであり、当時は
身分の高い女性も、紫革の足袋をはいていた
と思われる。

『獨語』には「自分の親しい人の中に、
慶長・元和頃に生れた者が男女ともにいて、
寛永頃に成人したと言っているが、
男性は冬革の打掛・革の袴が格好いいとされ、
女性は紫革の襪子しとうず※をはくのを
おしゃれとされた。その襪子は自分の幼い時
(天和頃を指す)までも残っていた」とある。

 ※襪子=足袋、靴下

また、『尤之双紙』(慶長二年印本)上の巻、
紫の物の品々をいうくだりに「女児がひとり
いたが、紫鹿子の小袖着て、薄紫のくくし帯※、
紫足袋をはいていた」とあり、寛永・慶安頃は

 ※くくし帯=絞り染めの帯

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紫足袋がもっぱら使われていたと思われる。

しかし『都風俗鑑』(延宝九年板、杏花堂蔵本)
巻の二に「足袋は白革で、紫足袋をはく者は
ちょっと気の利かぬ御方だ」とある。

『あかし物語』(一名女五経、延宝九年板)には
「足袋は白なめしが良い。紫はむさくるしい」
とあるので、延宝頃に至っては紫足袋はやや
廃れたのだろうか。

貞享三年の印本に、老女のことをいうところで
苧桶おごけ※の底から紅の織紐をつけた
紫の革足袋一足、次々の珠数袋」

 ※苧桶=麻糸をみ溜めておく円桶

『西鶴織留』(貞享頃の著述、正徳二年印本)
巻の一、ある老女が自分の若い時のことを語る
くだりに「自分たちも普段は、花色染めの木綿の
着物に、紬の帯一筋でおしゃれして、嫁取り
振る舞いの時も、浅葱あさぎにちらし菊の絹の物、
朱珍※の帯、紫の革足袋で華やかに着飾った」
とあるので、貞享頃に至っては、紫足袋を
はくものがいなかったわけではない。

 ※朱珍=厚地の絹織物

『我衣』には足袋のことをいうところで
「寛文頃まで、女性は紫革などで作り、
筒の長い白革・浅葱革もあった。
紐は白繻子しゅす※を白綸子りんずにし、
一足で一年も二年もすり切れるまではいた。
天和頃から木綿のうねさしの足袋が流行った」

 ※繻子=織物組織( 三原組織 )の一つ
 ※綸子=絹織物の一種

今いろいろ参考にすると、紫足袋は天文頃から
寛永・慶安頃まで使われ、延宝・天和頃には
廃れてしまったようだ。

『翁草』巻の五に

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昔は男女ともに、革足袋が使われた。
明暦以降は革の価値が高くなったので、
木綿足袋をはくようになった」とある。

しかし『ねずみ物語』(寛永二十年印本)には
裕福な者のことをいうところで
「高麗刺しの木綿足袋、頤頭巾おとがいずきん※で顔隠し」
とあれば、寛永頃も木綿足袋が
なかったわけではない。

 ※頤頭巾=あごのところで紐でとめる頭巾

5.丸づくしの文様

慶安から万治・寛文頃の女性の衣服に
丸尽しの文様が見られる。

『山の井』(慶安元年刻)
 「秋の野の にしきの露や 丸づくし」
『崑山集』(慶安四年撰、明暦二年刻)
 「花々に うつる日影や 丸づくし」
『新続犬筑波集』
 「影うつる 田毎たごとの月や 丸づくし」

これらの句が証拠となるだろう。

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万治・寛文頃を最盛期に時が経ち、
江戸・三浦屋の名妓薄雲が亡くなったあと、
彼女の着ていた小袖を打敷うちしき※に作り変え、
出生地信州鼠宿のある寺に寄付したそうだが、
今もあったらよいなあと思う。

 ※打敷=仏教の寺院や仏壇に飾る荘厳具の一種

ある人がその文様を二つ写してくれたので
次にように描いてみた。

これもまた万治・寛文頃に丸づくしの文様が
あったという一証だろう。

地は緋の綸子。紋は紗綾形さやがた
総文様は丸の中にいろは四十八文字。
さらに一二三の数字も有り。
丸のところは白く染め抜き。
文字は黒紫・萌黄などの色糸を使って
縫ってある。
丸の周りの縁は金糸が使われ、
丸に大小の違いがある。

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<丸尽文様雛形二種>

寛文六年印本、新撰雛形所載。
瓢水子浅井了意の序あり。

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同じく<丸尽文様雛形二種>

先程の打敷うちしきとこの雛形が合致することから、
当時の流行を知るべし。

天和・貞享頃の印本、『女重宝記』というものの
一の巻に「友禅染の丸づくし」とあり、
それも一証とすべし。


【たまむしのあとがき】

「紫革の足袋」ですが、革の足袋って蒸れないの?とすごく気になっていました。

ですが、今でも高級品というだけで普通に売っているようですし、裏地をつけるので、表面だけが革だから、特段問題もないようです。

さすが革足袋、見た目も高そうなお品で、見たことのない世界でした。

単純に自分が知らないというだけだったようです。

こうして歴史に触れていくと、むしろ知っていることのほうがはるかに少ない・・・というより、ほぼ全部知らないこと、といってもいいくらいです。

ところで、「二束三文」の項のタイトルが「二足三文」となっていますよね。

これは書き誤りではないのです。

本文の説明通り、もとは安い草履のことを指していたので、「二足三文」だったのです。

では、そのまま「足」でいいじゃないかと思うのですが、なぜ「束」になったのかについては不明です。

尻切れトンボのようで気持ち悪いですが、仕方ありませんね。


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