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聖地南山城展へ行って後悔した話①@奈良国立博物館

 念願叶って奈良国立博物館の聖地南山城展に行ってきた。南山城といえば、一度京都から自転車で鴨川を下り、三河川合流地点から木津川に入って、そのまま川上を目指して行ったことがあった。そのときは蟹満寺と神童寺を訪れたが、禅定寺や海住山寺など他の古刹群へは参詣を計画しつつも未だ行かず仕舞になっていた。故に展示会で見るもののほとんどは初見のみ仏であった。

 2階へ上がって展示室に入ると、平安時代の霊像がずらりと並んだ光景が一目に飛び入ってきた。来訪者は神妙な顔つきで仏像を目前に近寄ったり遠ざかったり周り込んだりしながら、思い思いに鑑賞している。
 私は入口1体目の十一面観音像に見入った。前面が欠損した蓮華座がひと際目を引いた。見たところ妙な欠け方をしているような気がしたのだった。摩耗の進んだ反花をじっくりと眺め、規則性を予想しながら当初の意匠を妄想したりした。足元から顔に目を移すと髪の造り込みに今度は惹かれた。髪を耳たぶの中間あたりで弛ませた表現はもちろんのこと、別材で取り付けたのか小さく控えめな垂らし髪があった。それが妙に心を惹いた。細部にばかり気を取られていたが、離れて全体を見てみるとやはり霊木をも感じさせるずっしりとした体躯には安定感があり、久しぶりに見た平安の美仏を楽しんだ。何か目的があるのでもなくただ気の向くままにひたすら造形を堪能し、この1躯だけで15分くらいは眺めていた。

 それからいくらかの仏像仏画を鑑賞し、瓦片や陶器片なども見て廻り、また仏像に戻り……と古美術・考古学鑑賞を繰り返した。第1室だけで1時間半ほどかかったようだった。展示室は騒がしく、人々はあれこれ感想や本で読んだ知識などを言い合いながら進んでいく。展示室をうろうろしながら、私はしだいにどうしようもなく空虚で悲しい心持ちになった。それは禅定寺の本尊十一面観音像を目の前にした時に顕著であった。見上げるほど長身な菩薩像を目の前にして、こんなところで見えたくなかったと、心底後悔した。
 私は普段お寺に参拝に行くと、大した信仰心もないくせに何時間も長居をして、仏像や堂宇を自らの知的好奇心や美的感性を満足させるためだけに観察することに、少なからぬ引け目を感じていた。仏像をある種の美術品と見なす新しい価値観によって、古美術鑑賞を行う者が信仰の場にずかずかと入って行く非礼さ。仏に対する信仰心をもたないことに劣等感すら抱いていた。
 しかし、必ずしもそうではなかったのかもしれない。これまで実は、ある種の信仰心を抱いて仏像を拝していたのかもしれない。

 私はどうしても、博物館や収蔵庫で仏像を眺めるのが好きになれない。朋友を裏切ったような、自分の愚かさに胸を刺されるような、誠に申し訳ない気持ちになってしまう。人は拝むことも遠慮もなく仏像に近づきその表面に目を滑らせ、次々に消費していく。亀井勝一郎風に言えば「愛情の分散」ともいうべきか、ずらりと並んだ仏像に際限なく目移りし、一体一体に懸ける情熱は希釈され、美も慈悲も比較によって次の瞬間に相対化されていく。対して鑑賞されるみ仏の方は、そんなことなど意にも留めず、深い瞑想に耽りあるいは突き放すようにこちらに微笑み返すようだ。仏像はどこまでも頼もしい………言ってしまえば特別展の行き着く感想はこうだった。

 寺院で仏像を拝するとき、指のしなやかな伸びや天衣のうねり、鼻筋や目もとの鋭さ、引き締められ或いは微笑を浮かべた口もとの表現など、細部に至る特長をまじまじと観察してしまう。このような自らの行いを、仏像に対して博物館的な見方をするものとしてずっと負い目を感じてきたが、実は純粋に非宗教的な接し方はしてこなかったのかもしれない。博物館においてはそのような試みを全くできなかったのだから。聖地南山城展に並んだ仏像は第一室だけを見ても相当優れた作品だった。しかし寺院で仏像を拝する際とは異なり、自然な観察の熱意が全く起こらなかった。「博物館だから」しっかり細部まで観察をし、身につけた教養と照らし合わせながら分析をし、背面や足元もしっかりチェックして………気合いを入れて無理に「鑑賞」している感覚があった。せっかくテーマパークに来たのだからと、どこか頑張ってはしゃぐ自分を演じているときのような。それがどうしても耐えられなかった。

 そもそも普段お寺で仏像をじっくりと堪能するのは、グッとくる瞬間が引き金となり、自然と沸き上がってくる情熱が観察の動機になるからであった。そしてその「美的鑑賞」はいつも、仏像がもつ人為を超えた神秘性や、背負う歴史の重量感や、あるいは纏う深い慈悲の印象などの真因を、なんとか自分なりに解明するという目的を向いている。その根底には「グッとくる」感覚があるのであり、そのグッとくる感覚は何か宗教的な性格を帯びたものなのかもしれない。純粋に仏像を考古学的価値のある美術作品として見ているとは到底思われない。そのある種の信仰心が、展示室の私を苦しめるのかもしれない。
 問題は私は一体何を信仰しているのか、ということだ。仏教についてはほんの少しだけ知識を身につけてはいるが、その世界観や仏の存在などを信じたりはしていない。また仏像に仏や菩薩の魂が宿っているとは、少なくとも法要によって出し入れ可能な限りにおいては思っていない。
 では私は一体なにを信仰しており、何を仏像から感じとり、なぜ博物館で苦しむのか………。

 博物館というのは特殊な空間だ。仏像は寺院という信仰の空間から切り離され、近代的な空間に人工的な照明のもと置かれる。



(長くなりそうなのと、疲れてきたのでここで一旦切ります)

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