見出し画像

仏像の信仰と美的鑑賞―聖地南山城展に行って後悔した話②@奈良国立博物館

 博物館というのは特殊な空間だ。仏像は寺院という信仰の空間から切り離され、近代的な空間に人工的な照明のもと置かれる。厨子、堂宇、境内など仏教寺院のあらゆるコンテクストから物理的に切り離された仏像は、無機質な台に置かれ或いはガラスケースを被せられ、考古学的・美的観察の目に晒される。その有様を見るとまるで法難を目の当たりにしているような気さえする。

 しかし、博物館には博物館の意義がある。仏像が博物館に置かれるとき、寺院から切り離された仏像はもちろん博物館という文脈に従うことになる。博物館は歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集・保管・展示して、教育的配慮のもとに一般に公開する目的をもっている。つまり仏像はその考古学的・教育的価値を評価され、あるいは美的価値を見出され、博物館に並ぶのである。仏像が寺院でもつような畏れ多さや精神的な尊さとは別の価値が評価されるのであり、仏像が信徒とともに築き上げてきた「信仰」も、学術研究の対象になるだろう。(そして、かつて廃仏毀釈の嵐から仏像を救ったのは、仏像にこのような新たな価値が見出されたことだったということは、忘れてはいけないと思う。)
 おそらく私が博物館で抱く複雑な負の感情の根本的な原因はここにある。仏像がもつ価値の二面性。それは宗教的な信仰上の礼拝的価値と、近代以降見出されてきた考古学的・美的価値の対立であり、両者の間に妥協点を見出すことはおそらく難しい。私個人としては、仏像に対する何か宗教的な信仰心と、美的な側面を愛で、考古学的・知的な好奇心を満足させてくれる側面をも好む感性的・知的関心の両方を内面にもっており、仏像と対峙するときにはこの両者が内面において葛藤するのである。これが私が南山城展で抱いた激しい葛藤の原因だろう。

 ただ、これまで仏像の価値を大きく礼拝的価値と考古学的・美的価値の2つに分けて論じてきたが、本当にこの両者を分けることが可能なのかどうかについても、私の内面においては疑問がある。この点については別の文章を書こうと思っている。

 話を戻して博物館の仏像を眺めていると、仏像というのは本当に頼もしくも見える。騒がしい展示室で誰ひとり手を合わせる者もなく、信仰とは無縁の目を向けられても、当の仏像は全く気にも留めていない様子で佇立している。一時的な信仰の剥奪も知的満足を求める観察も、明治維新時の廃仏毀釈など過去の苛烈な法難に比べれば何の苦でもないとでも言うように、静かに瞑想を続け、衆生救済の形相を浮かべている。浅はかな信仰心から葛藤しているこちらのことなど笑い飛ばしているようにすら感じられる。

 ではこの葛藤を寺院では感じないのかというとそうではなく、寺院でも同様の葛藤は抱く。だが、博物館で抱く葛藤と比べるとかなりましな程度に留まる。これは極めて自分勝手な感覚だと我ながら思う。

(続)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?