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顔、肖像についての覚書

「一切の社会的秩序は、人びとの顔に加工されたものから解説することが可能になる。というのも、この秩序は、それが組織するあらゆる領域にかかわるのと同じ方法で、顔にかかわっているからである。それ自体としての顔、そんなものは何にもならない。顔とは、つねに社会関係の顔のことなのである。」
ミッシェル・ギユー「欲望の屍体解剖・欲望の美学」(塚原史訳)

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 フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている、ヨハンネス・グンプ(Johannes Gumpp)による自画像(1646年、油彩/カンヴァス、88.5×89.0cm)。制作中の画家と、鏡に映った画家の横顔、カンヴァスに描かれた自画像の視線が交錯する独特の構図である。観る者の思考を、自画像の制作過程、自画像における自己・鏡像・肖像(自己イメージ)の関係へと誘う。画布の下の犬と、鏡のそばの猫がいがみあっており、犬は忠誠を示す動物であり、また画布には画家の署名を記した紙片がかけられていることから、鏡像に対する肖像の優位が表されているとも言われる(1)。それぞれの像の優劣の問題は置いておくとしても、ここから喚起される、どこに自己は存在するのか、自分の顔とは何であるか、という問いは、自己・鏡像・肖像の三者の眼差しが形作る完結した三角形の中をさまよい続けることになる。

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 草花の描写に優れた画家、ニコラ・ファン・ハウブラーケンによる、《花輪の中の自画像(?)》(1720年頃、油彩/カンヴァス、136.0×99.0cm、ウフィツィ美術館)。この絵は画家の自画像であるという説とともに、友人であるフランス人画家フランソワ・リヴィエールとふざけ合って描いた作品であるとも言われている(2)。色彩豊かな花々に飾られた布地の破れ目からだまし絵的に顔を覗かせている。この裂け目が、肖像画の作為性や、絵画のイリュージョン性を露呈させているとも言えるかもしれない。画面を台無しにしながらも、控えめなモデルの表情が妙に印象に残る。

ジャン=リュック・ナンシーは、肖像を「不在者の現前であり、不在における現前」であるとして、これまで考えられてきたような単なる再現表象ではないと主張している(4)。つまり、肖像画はモデルの同定のための道具ではない。そのような肖像の捉え方は、レヴィナスの「顔」の捉え方に通じるところがあるだろうか。

顔は意味作用であり、しかも、文脈のない意味作用です。つまり、他人はその顔の公正さにおいては、ある文脈のなかにあるひとりの人物ではない、ということです。通常、ひとは何らかの「人物」です。例えば、ソルボンヌ大学の教授であったり、国務院の副議長であったり、誰それの子息であったりするわけですが、それらはすべて、パスポートのなかで服をまとい、その姿を現す流儀なのです。そしてまた、いかなる意味作用も、この通常の意味のいて、こうした類のひとつの文脈に関連しています。つまり、あるものの意味は他のものとの関係のなかにあるのです。ここでは、反対に、顔はただそれだけで意味なのです。あなたはあなたである、というように。この意味で、顔は「見られる」ことはない、と言うことができます。顔はあなたの思考が包含する内容にはなりえないのです。それは包含しえないものであり、あなたを彼方へと導いていきます。それゆえ、顔の意味作用は、知と相関的なものとしての存在から顔を逃れさせるのです。
エマニュエル・レヴィナス著、西山雄二訳『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話』、筑摩書房、2010年、p.107-108

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 不在者の現前としての肖像、人物ではない顔、「見られる」ことのない顔と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、かつてグイド・レーニの作とみなされていた≪ベアトリーチェ・チェンチの肖像≫で、意味作用の文脈、こちらの思考・眼差しを絶えずすり抜けて、逃れ去っていくような強烈な不在の印象。現在では、グイド・レーニの作品ではなく、またこの絵のモデルもベアトリーチェ・チェンチではないという見方が有力であり、その来歴の曖昧さや匿名性がまたこのような印象を強めているのかもしれない。

 鷲田清和は『顔の現象学』において、顔面と仮面を対立させようとする捉え方に対して、表面の顔の向こう側にある、ありのままの顔、素顔というものは存在するのか、という問いを提出しているが、この顔面と仮面の対立という考えが明瞭に表れているのが、ボードレールの詩「仮面」である。ボードレールはこの詩を、同時代のフランスの彫刻家エルネスト・クリストフの作品(1876年、大理石、オルセー美術館)に捧げている。ボードレールの詩の初出は1859年らしいが、おそらくエルネストは同様の主題の作品を繰り返し制作していたのだろうと思われる。

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仮面、惑わしの飾りでしかないのだ、
甘美な媚態にかがやくこの顔の方は。
そして、見たまえ、こちらに、酷くも引き攣れて、
ほんものの頭部、正直な方の顔が、
嘘つく顔のかげに、のけぞっているのを
ボードレール著、阿部義男訳「ボードレール全詩集I 惡の華ほか」、筑摩書房、1998年、p.68

岡田温司『肖像のエニグマ』によれば、その仮想的な対立は18世紀に生まれたもので、ピコ・デッラ・ミランドラの『人間の尊厳について』、カスティリオーネの『宮廷人』が証言するところによると、ルネサンス期の宮廷では、むしろ「さりげなさ」という仮面を装うことが理想的な振る舞いであり、変幻自在のカメレオンであることが人間の理想的なあり方とされていると指摘している(3)。そこで思い出すのはリルケの『マルテの手記』の中の、人びとの顔を観察した場面である。

 僕はきょうまで、だれもがいくつもの顔を持ち合わせていることに気がつかなかった。何億という人間が生きているが、顔はそれよりもたくさんにある。だれもがいくつもの顔を持っているからである。何年でも同じ顔をつけている人がいるが、むろんそういう顔は傷み、よごれ、皺のところから敗れ始め、旅行にはめた手袋のようにだぶだぶになる。これは倹しい質素な人々である。かれらはいつも同じ顔をつけていて、それを洗おうとさえしない。これで十分だ、とかれらは言うのだが、それで十分ではないと、だれが言って聞かせることができよう。さて、かれらもいくつかの顔を持ち合わせているのだから、使わない顔をどうするのかということがむろん考えられる。彼らはそれをしまいこんでいるのである。自分たちの子供につけさせようというのだ。しかし、かれらの犬どもがそれをつけて走りまわっていることがある。犬がつけてはならない理由はなかろう。顔に別はないからである。
 これに反して、気味のわるいほどつぎつぎと顔を替え、傷める人々もある。かれらは初めは顔を無尽蔵に持ち合わせているように考えるのだが、四十歳になるかならないかに、現在つけている顔でおしまいということになる。むろんこれも悲劇である。この人々は顔を大切にすることを知らない。最後の顔も一週間足らずで傷み、穴があき、あちこちがしだいに紙のように薄くなり、地があらわれ、顔とはいえなくなる。それをつけて歩きまわっているのである。
リルケ著、望月市恵訳『マルテの手記』、岩波書店、1946年、p.10-11

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 レンブラントが自身の父を描いたドローイング。かなり失礼な言い方になるが、先のリルケの長年使い古した顔についての記述を読んで、真っ先に思い当たったのがこれだった。

肖像画、あるいは顔について、最近ぼんやりと考え続けている。他者の眼差しは地獄であるとサルトルは書いていたが、肖像画の眼差しは、なぜこれほどまでに見るものを惹きつけるのか。冒頭の引用文に書かれているように、「顔とは、つねに社会関係の顔のことなのである」とすれば、肖像画には単なる自己演出を越えた社会関係が描き込まれているはずである。一方でレヴィナスは、顔とは文脈のない意味作用であると語っている。肖像画は、一般に個人を記念・記録するために描かれると言われているが、ジャン=リュック・ナンシーは、肖像は再現表象ではなく不在者の現前であると主張する。顔や肖像をめぐるこれらの言説は、いずれも真実味を帯びているように思える。これほど多様な意味を引き出しながら、依然として捉えがたいままの状態にとどまっている人間の顔、そしてそれを描いた肖像画とは何か。これからしばらくはそれを考えていきたい。

 


(1)ジャン=リュック・ナンシー著、岡田温司・長友文史訳『肖像の眼差し』、人文書院、2004年、p.33
(2)『ウフィツィ美術館自画像コレクション──巨匠たちの「秘めた素顔」1664-2010──』、朝日新聞社、2010年、p.73-74
(3)岡田温司『肖像のエニグマ 新たなイメージ論に向けて』、岩波書店、2008年、p.263、p.283
(4)前掲書、ジャン=リュック・ナンシー、p.43

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