見出し画像

古田 織部(ふるたおりべ)

古田 織部(ふるたおりべ 古田重然 しげなり)は室町時代末期から安土桃山時代にかけての武将で茶の湯の造形が深かった古田 勘阿弥(ふるたかんあみ 重定)の子で戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した。17歳で織田信長の使番として仕官し、22年間織田信長に仕えた。1582年ごろに千利休に弟子入りし千利休とともに茶の湯を大成し、茶器、会席具製作、建築、作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代から江戸時代前期にもたらした。千利休の高弟7人を指す「利休七哲」のひとりとされ、利休死後は「天下の茶人」と言われた腕前。信長の死後は豊臣秀吉、徳川家康に仕え江戸幕府(将軍家)の元で行われてきた武家茶道(ぶけさどう)、柳営茶道(りゅうえいさどう)の祖である。柳営茶道は武家茶道として織部流の他に小堀遠州(こぼりえんしゅう)の遠州流片桐石州を租にする石州流(石州流宗家)、石州流伊佐派(せきしゅうりゅういさは)、野村休盛派(のむらきゅうせいは)、石州流嘉順派(せきしゅうりゅうかじゅんは)などがある。

古田織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えの通り、利休の静謐(せいひつ)さと対照的な動的な「破調の美」の道具組をおこなっており、1599年(慶長4年)2月28日、古田織部の茶会に招かれた博多の豪商神屋宗湛が宗湛日記のなかで、織部茶碗を見てその斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記している。ヘウケモノとは「剽げる」と書き、ふざける、おどけるという意味である。

織部好みの代表的な茶室には浄土寺の露滴庵(ろてきあん)や、千利休の侘び茶に古田織部の武家茶の影響を受け継いだ古儀茶道藪内流の織部考案の相伴(しょうばん)席付三畳台目の茶室 燕庵(えんなん)、篁庵(たかむらあん)などがある。露滴庵は京都の伏見城内にあったもので、現在は広島県尾道市浄土寺にある。入母屋造茅葺屋根の三畳台目の茶室に水屋及び四畳と四畳半の勝手からなり、古田織部好みの風格のある建物で、桃山時代に創建、本席と間2室は浄土寺への移築時に建て増しされたとされる。露滴庵の東にある中門は、かねざし折りに腰掛け待合を備えている。


現在は十四代を数える400余年の歴史ある京都 薮内家を象徴する茶室が燕庵(えんなん)。初代藪中斎剣仲紹智が古田織部から譲り受けたもので、入母屋茅葺屋根造り。屋根の妻には利休から託されたとされる村田珠光筆の「燕庵」の額が掲げられている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?