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茶の湯の歴史 村田珠光、武野紹鴎…

千利休が現在まで通ずる侘茶を確立し、3代目の千宗旦(せんのそうたん)や、その子どもで三千家を興した次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)表千家、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)裏千家の偉人達は知っているが、茶道の流派は煎茶も入れて400近いそうで、どんな方たちがそれぞれの茶の湯を開いて行ったのか興味が湧いてきたので、浅い知識ながら調べ始めました。間違ってる所があったらごめんなさい…

村田珠光(むらたじゅこう)

室町時代中期の僧侶であり茶人。村田珠光(むらたじゅこう)は奈良の田地(でんち)の中に建てた庵で部屋から見える場所に置かれていた、蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶器、竹柄杓を使い、訪問者には茶を点てもてなしていたとされこの庵での様式が茶の湯の原型でわび茶が創始されたとされる。

武野紹鴎(たけのじょうおう)

武野紹鴎(たけのじょうおう)は堺の商人で、京都で三条西実隆(さんじょうにしさねたか)より和歌を学び、やがて和歌の境地を茶の湯に導入したとされる。千利休を育成した。山上宗二によって記録された山上宗二記の紹鴎四畳半によると、町屋の一郭に路地よりも小さな坪の内(つぼのうち)とともに茶室が作られており、檜の角の柱で鴨居は低く、天井は野根板(のねいた)仕上げで高さ2.1m(7尺1寸)床の間は、間口一間で奥行が二尺三寸。天井は杉の一枚板で床框は栗の木を用い掻合塗りで黒く塗り、炉は本勝手。茶室は北向きで入口には簀子縁(すのこえん)が設けられていた。

今井宗久(いまいそうきゅう)

大阪堺の商人で茶人。1568年(永禄11年)10月、織田信長と摂津西成郡芥川で接見し、名物松島の葉茶壺(まつしまのはちゃつぼ)や紹鴎茄子(じょうおうなす)などを献上し、これ以降は織田信長に重用されさまざまな特権を得た。代官領に鍛冶屋を集め、鉄砲や火薬製造にも携わり、会合衆の中でも抜きん出た存在として立場を確立し、織田信長の天下統一を側面から支えた。茶人としては千利休、津田宗及とともに織田信長の茶頭を務めた。戦国時代末期に橿原市今井町に建てた茶室は、後に電力業界に貢献した松永耳庵(まつながじおう)が1940年(昭和15年)に買い受け小田原市に移築し、黄梅庵(おうばいあん)と名付けた。現在の黄梅庵は1980年(昭和55年)大仙公園内に移築されている。

今井宗久の好みだが、時代考証的には現存しているものは宗久が建てた物ではないらしいが…好みということで宗久の作でいいのかな…

黄梅庵
茶室の間取りに関しては資料などを参考に起こしていますが、間違いがあるかもしれません。ご了承ください。

津田宗及(つだそうぎゅう)

堺南荘の豪商天王寺屋の子として生まれ、武野紹鴎の門人であった父に茶道を教わる。大徳寺住持の大林宗套(だいりんそうとう)に禅を学び天信の号を与えられる。1572年(元亀3年)11月には織田信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加し接待を受ける。後に豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられた。

村田珠光から草庵の茶室文化がスタートし、堺の商人であった武野紹鴎に習った千利休と同じ時代を生きた今井宗久、津田宗及の三人が競い合い侘茶を生み出したのだろうか…

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