見出し画像

川とビルの狭間で

  たどり着いたのは、大きなビルに挟まれた、ひなびた細いビルだった。「高田ビル」とレトロな字体の看板があった。
「ここだね。」
岩城が扉を開ける。浜口と南が後に続いた。
「事務所は·····6階だね。」
岩城が入ってすぐのエレベーターのボタンを押す。扉が開いた。6人乗りとあるが、3人でいっぱいだ。「6月22日給湯器のスイッチが入ったままでした。火災につながるので、退室前に必ず火元の確認をして下さい。」と貼り紙がある。
 エレベーターを降りるとすぐに事務所の扉があった。
「こんにちは。」
岩城がノックして開ける。

 年配の男性が、穏やかな笑顔で立っていた。茶色がかった髪の色、チェックのシャツ、少し日焼けした肌。想像していたより、かなり軽やかでアクティブな印象だ。
「駅の出口を間違えて、少し遅くなりました。」
「アイ設計の岩城です。」
「同じくアイ設計の南です。」
「浜口工務店の浜口です。」

「まあ、おかけ下さい。」

「失礼します。」

「まずは、私のことから話しましょうか。私はイズミ建設にずっといましてね。本当はコンクリートが専門なんです。新しい工法や特許もいくつも取りました。
 古い木造住宅を補強するのに何かいい方法はないかと相談されてね、それで、この耐震工法を考えたんです。」

「今日はその耐震工法を勉強するためにきました。」
岩城が言う。

「私はその工法を地元で広めて、補助金をもらえるようにしたいんです。住宅の一般的な耐震補強は市から工事費の補助が出るのですが、特殊な工法は認めてもらえません。
 この工法は古い住宅の良さを生かすものだと思います。
 先生に地元に来てもらって、まずは、勉強会を開きたいんです。」
浜口が言う。

「そうだね。他の地域でも、私を呼んで大々的に講習会をしました。だけどね、急に私が行っても、その地域の大学の先生や、建設業の組織など、それをよく思わない人達がいるんですよ。既得権を持った人達がね。
 私は、どの学派にも属していない。始めはある協会に入っていたが、そこも支障があって辞めた。もちろんイズミ建設も辞めて、自由にできるよう社団法人を立ち上げた。」

「だから、まず私が行くよりも、あなた達で勉強して、1件1件、この工法の実績を作っていくんです。2か月に1回開催する勉強会や見学会に参加するといいですよ。でも勉強するだけではダメです。自分で構造設計してみないと。構造設計したものを、私や私の教え子がチェックするシステムがありますから、それを積み重ねていくんです。」
「もちろん、その間にも、役所の建設課には常に連絡をとって、こういう活動をしていることを伝えるんです。そうするとね、何年か後に、公共の古い木造建築を改修しようという計画が出てくるんです。その時がチャンスです。」
「その時になればね、私もそちらの大学の先生とも親しいですから、その辺りを経由して、私も協力させてもらいますよ。」

 「ぜひよろしくお願いします!」と浜口が身を乗り出す。浜口は熱心にこの工法に取り組んでいる。南はその構造設計を頼まれたのだが、知識や経験が及ばず、どうしていいかわからない。それで今回、勉強も兼ねて、その発明者のところを訪ねてきたのだった。

 新しいことを勉強するのは、いつもわくわくする。そしてこの先生はどこか魅力的だ。先生が書いた書籍を1冊ずつ頂き、他の本やテキストも、後日取り寄せられるように全てメモした。

 しかし南は、かなり気が重いのも事実だった。浜口の期待に応えてこの物件の設計を急がなくてはいけないが、同時進行で他の構造設計の納期も迫っている。それでも夕方は残業無しで保育園のお迎えに走らなければ。最近4歳の娘は園でのお漏らしが連日続いている。もっとママにかまってほしいのかもしれない。
 あれもこれもしなくては、とプレッシャーが空回りしているのか、どんどん体と心が重たくなっている。

 その後、先生の若い時のエピソードや、偉い方達のオフレコ話、構造設計の考え方、いろいろな論文の紹介などを聞いて、楽しい時間を過ごし、3人は事務所を後にした。

 帰りの廊下で、ふと窓から、川原と向こう岸のビル郡が見えた。
「いい眺めですね。」
体の中で渦巻く、期待と不安と疲れをなだめながら、南は家に帰った。