見出し画像

小説 桜ノ宮 ⑥

広季はいつものように施設のロビーでコーヒーを飲みながら母春子が来るのを待っていた。

コロナ騒ぎの影響か、いつも家族との面会でにぎわっているロビーは閑散としていた。流れているクラシック音楽も心なしかもの悲しい。椅子に深く座り直し、庭に目をやるが人っ子一人いなかった。


コロナのせいで世の中はどんどん変わっていっている。今までズルズルと後回しにしていたことが一気に取り入れられるようになっていた。在宅勤務に時短出勤。先日、広季はZOOM会議に初めて参加した。役員会議だった。途中で画面が乱れて参加できず、つながった時にはいくつか業務の簡略化が決まっていた。そもそも役員のなかで一番下っ端の広季には発言権などほぼ無いに等しい。存在していなくてもいろんなことが決まってしまう事実にやや心が折れそうになった。
後にその会議で決まったことを在宅勤務中の秘書・福井が書面にしてメールで送ってきてくれた。
在宅勤務になったことで、出産ぎりぎりまで働いてくれるらしいが、そのぶんこちらにも負担が増えるとのことだった。
もともと、福井が携わっている業務は広季自身の仕事の一部であるし、そのなかでもスケジュールなどは自分で管理するのはそう難しいことではない。メールに添付された決定事項を読みながら、広季は紗雪のことを思い出し、福井に電話した。
「あの今度来る予定だった派遣さんはどうなるん?」
「あれ、回線が切れている時だったんですかね。派遣さんはどこの部署もとりあえず休みになったんです。市川さんに関してはまだ出勤もしていなかったし、この自粛期間もいつまで続くかわからないのでとりあえず、無しになったんですよ」
「無し?」
「はい。在宅勤務であれば、私もまだ働けますし。社員みんなでできることはやっていこうってことになって」
「へー」
そんな展開になってしまったので、広季は今日、この施設へ来るのは正直気が重かった。顔を合わせたらなんと話していいのやら。冷めたコーヒーをすすっていると、春子の担当介護スタッフである山井が目の前に現れた。
「すみません。あのう」
申し訳なさそうに手を前でもみながら立ちつくしている。
「ああ、お世話になります」
あわてて広季は立ち上がった。春子の姿は無かった。
「春子さん、つわりがひどいそうで今日は会えないそうです」
「ははは。そうですか」
額に垂れた前髪をなおしながら、広季はごまかすように笑った。
「何だか、母は想像妊娠をしているようなんですよ」
「そうなんですよ。最近は特に体調が悪そうで。先生に診てもらっても何もないんですけど」
「元気ならそれでいいです。また来ます。よろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
受付でコーヒー代を支払い、施設を出た。曇り空がさらに心を陰鬱とさせる。気晴らしにどこかで一杯飲んで帰りたいところだが、このご時世、店に入っていいのかためらわれる。ふいに、つわりで苦しむ母親を想像する。滑稽に思えて笑いがこみ上げた。
「あ、こんにちは」
ひとりでニタニタしているところを話しかけられた。紗雪がいた。
「おお、どうも」
広季の頬が赤くなった。
「ご面会に?」
紗雪は神妙な顔つきで広季を伺っている。
「ええ。あー、でも、会えませんでしたけど」
「そうですか。それじゃあ」
紗雪は軽く会釈するとその場を去ろうとした。
「あの、すみません。仕事、流れちゃったみたいで」
広季は紗雪の後ろ姿に向かって叫んだ。
振り返った紗雪に広季は睨まれた。
「すみませんじゃないですよ。そのうち、内容証明でも送ったるから。こっちはカツカツなんですよ。このご時世、この年齢でまた仕事探すなんてどれだけ大変なことかわからないでしょ。ま、こんな話、あんたにしてもしゃーないんやけど」
雇い主と派遣の関係では無くなったからか、紗雪の言葉は多少荒っぽくなっていた。
「あー。本当にすみません。うちのネット環境がもっとちゃんとしていればこんなことにはならなかったかもしれないんです、けど…」
「何やそれ」
「あ、せや。市川さん、もしよろしかったら、ご面会が終わったらどこかで飲みませんか。お詫びにごちそうします」
我ながら軽いなと広季はしゃべりながら思った。
紗雪は広季の足元から頭まで素早く見た。
値踏みでもされているのだろうか。
広季は自分の軽さを恥じた。
「いいですよ。食費、浮かせたいんで。ここで待っていてください」
紗雪は施設の中に入っていった。

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?